増上寺


三解脱門

東京都港区芝公園4

慶長16年(1611)、徳川家康公の助成により、
幕府の大工頭・中井大和守の配下によって建立
されたもので、重要文化財の指定を受けている。
略称を三門といい、食欲・ 瞋恚 ・愚痴の三悪
(三毒)を解脱するという意味からこの名がある。

本堂




徳川将軍墓所

東京都港区芝公園4



徳川将軍墓所
戦災に遇うまで、増上寺の南側に二代将軍秀忠、
北側に六代家宣、七代家継などの御霊屋があった。
これらは当時の建築技術の粋を結集したもので、
各々国宝の指定を受けていたが、現在は入口の
「鋳抜門」と二代将軍宝塔にその面影を残してい
るに過ぎない。将軍のほかには、静寛院(和宮、
家茂の御台所)、崇源院(家光の母、お江与)、
桂昌院(綱吉の母・お玉)などが合葬されている。


東京都港区芝公園4丁目

増上寺は徳川将軍家の菩提寺として、かっては二代
秀忠の霊廟(現在のゴルフ場敷地)と六代家宣・七代
家継の霊廟を中心とした北廟(現在の東京プリンス
ホテル敷地)があり、その華麗さは日光東照宮を凌ぐ
とさえいわれていたが、昭和20年3月の東京大空襲
により大半が焼失。昭和33年に実施された改葬により、
徳川家の墓所は安国殿裏手のこの一画にまとめられた。

水路跡


ここに並べられた石垣石は、増上寺山内丸山に造営
された台徳院(二代将軍徳川秀忠)霊廟の惣門前に
構築された水路に用いられたもの。台徳院霊廟は
寛永9年(1633)、台徳院の死後まもなく造営が始
められ、およそ一年後に竣工したことが記録にある。




廟に祀られていた遺体は、昭和33年調査発掘された。

その四肢骨からの推算からは
徳川秀忠158cm足らず
徳川家宣160cm
徳川家重156.3cm
徳川家慶154.4cm
徳川家茂156.6cm
骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと 鈴木尚著より

増上寺旧方丈門(黒門)


増上寺の方丈の表門であったので、方丈門と呼ばれ、
また全体が黒漆塗であったため黒門ともよばれた。


岡崎市の樹寺には、歴代将軍の等身大の位牌がある。

大樹寺・山門

岡崎市鴨田町

徳川家菩提寺。
寛永18年(1641)家光公建立。県指定文化財。

松平八代徳川歴代将軍位牌堂

岡崎市鴨田町・大樹寺

徳川歴代将軍
      出生〜死亡 年 位牌高さ
初代 家康 1542〜1616 75 159.0cm
2代 秀忠 1579〜1632 54 160.0cm
3代 家光 1604〜1651 48 157.0cm
4代 家綱 1641〜1680 40 158.0cm
5代 綱吉 1646〜1709 64 124.0cm
6代 家宣 1662〜1712 51 156.0cm
7代 家継 1709〜1716  8 135.0cm
8代 吉宗 1684〜1751 68 155.5cm
9代 家重 1711〜1761 51 151.4cm
10代 家治 1737〜1786 50 153.5cm
11代 家斉 1773〜1841 69 156.6cm
12代 家慶 1793〜1853 61 153.5cm
13代 家定 1824〜1858 35 149.9cm
14代 家茂 1846〜1866 21 151.6cm
15代 慶喜 1837〜1913 77 位牌無し


ちなみに、桂昌院の生前の身長は、後の遺体発掘で
判ったことだが、百四十六・八センチ。徳川将軍の
正室・側室の平均百四十四・八センチの中でもすこし
高い方である。なお、身長に関して、綱吉が低身長症
(百二十四センチ)だったとするのは、綱吉を憎悪した
六代将軍家宣とその子・七代将軍家継時代の悪質な
作為である。綱吉は生前オランダ人と比較的多く会って
おり、彼らの残した記録では「立派な風貌に強い印象を
受けた」となっている。世辞をいう必要のない彼らの意見
の方が正解である。綱吉は将軍の平均身長(百五十五
センチ)前後あった。また、そうでなければ、自分を生ん
でくれた桂昌院に、これほどの孝養を尽くすはずもない。
余談だが、逆の作為が後の八代将軍吉宗の身長である。
その偉大さを強調するため、使用した太刀、鎧、さらには
「大わらじ」まで造って六尺豊かな大男に創り上げた。が、
吉宗も将軍の平均値以上の存在ではない。閑話休題。
加藤廣著「謎手本忠臣蔵(上)」より


将軍の等身大と言われる位牌と四肢骨からの推算との
違いのなかにどんな物語が隠されているのだろうか。


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