壬申の乱


                     関ヶ原は、徳川家康の900年前にも天下分け目の決戦
                     の舞台になっていた。いわゆる壬申の乱である。

                       古代の一大争乱、壬申の乱
                     

                     671年、天智天皇が没した後、実子である大友皇子
                     を立てる近江朝廷側と、皇太子・大海人皇子との関
                     係はいよいよ危険な状態となりました。翌年、意を
                     決した大海人皇子は、自らの湯沐邑(私領地)があっ
                     たこと、武略にすぐれていた美濃の豪族村国連男依
                     などが役人として仕え、在地の豪族や農民の支持が
                     期待できたことなどを理由に、美濃を挙兵の本拠地
                     に選び、密使を美濃に送りました。「急いで不破の道
                     をふさげ」この命令が、この戦の勝者を決めることに
                     なりました。玉倉部(玉)付近で最初の戦いの火蓋が
                     切られると、2軍に編成された大海人軍に近江軍は
                     しだいに押されていき、ついに陥落。大友皇子は自ら
                     命を絶って乱は終りました。
                     大友皇子の御首級を葬った地に自害峰の三本杉は
                     目印として植えられたと伝えられ、根回り6m、高さ21m
                     で、一ヶ所より杉が3本生えています。

                     集落の人たちも藤古川をはさんで東西陣営それぞれ
                     に支援し、合戦後、松尾の集落には天武天皇をまつ
                     って井上神社、藤下、山中の集落の人たちは弘文天
                     皇をまつった若宮神社、それぞれ集落の氏神として
                     います。

                                   西美濃歴史街道地図より


                            徳川家康最初陣跡
                     徳川家康最初陣跡
                               岐阜県不破郡関ヶ原町


                     徳川家康最初陣跡
                               岐阜県不破郡関ヶ原町

                     1600年9月15日未明、家康配下の3万余は、ここ桃
                     配山周辺に陣取り、家康はこの山頂において、大馬
                     印を高々と掲げ、指揮にあたる。
                     最後の陣地に移るまで、各陣営からの報告をもとに、
                     しきりと作戦会議が開かれたと思われる。

                     桃配山は、壬申の乱の時、天武天皇が兵士を励ます
                     ために桃を配ったところだという。

                     徳川家康が縁起をかついでこの桃配山に陣をおいた
                     といわれる。


                     中国では古くから、桃には邪気をはらう霊力があると
                     いう信仰があった。桃は生長が早く、多くの実を結ぶ。
                     つまり多産の木である。多産であるということは、強い
                     生殖力、たくましい生命力をイメージさせる。その生命
                     力を持ってすれば、邪気をも追い払うことができると
                     考えたのだろう。
                                   あっと驚く謎解き日本昔ばなし
                                      北嶋廣敏 太陽企画出版


                     竹取物語壬申の乱と関わりがある。
                     かぐや姫に五人の貴公子が求婚しているが、
                     @石作の皇子(丹比嶋真人)
                     A庫持の皇子(藤原不比等)
                     B石上麻呂足(石上麻呂)
                     C阿部御主人(安倍御主人)
                     D大伴御行(大伴御行)
                     これら五人の求婚者は、壬申の乱で大海人皇子側と
                     して活躍した人たちである。
                     Cは安倍晴明の先祖である。


                           自害峰の三本杉
                     

                                  自害峰
                     壬申の乱に敗れた弘文天皇は、大津の山前で自害
                     されました。
                     東軍の武将村国男依は、天皇の首をいただき不破
                     の野上に帰り、天武天皇の首実検のあと、この丘陵
                     の葬ったと伝えられています。

                               自害峯の三本杉
                     壬申の乱(672)は天智天皇の子・大友皇子と同天
                     皇の実子大海人皇子との間で起きた皇位継承争い
                     でした。
                     その戦はこの辺りから始まり、その後近江の瀬田で、
                     大海人軍は大友軍を破ったのです。
                     ここは自害された大友皇子の頭が葬られていると伝
                     えられ、弘文天皇御陵候補地です。三本杉がそのし
                     るしとなっています。


                              自害峰からの眺め
                     

                              黒血川
                     
                              岐阜県不破郡関ヶ原町

                            

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