吉村氏吉



海津市海津町松木

氏吉は天文2年(1533)、(一説に天文5年)、吉村
采女正の二男として尾張国に生まれました。元文5
年(1740)頃に作成された「吉村氏先祖新」「吉村系
図」によれば、兄源助とともに信長の配下にあり、
近江国鯰江(滋賀県東近江市)ね一揆鎮圧などに
活躍し、信長より感状を与えられたといわれます。
その後信雄の家臣として各地で参戦し、天正10年
(1582)12月、それまで領知していた神桐、秋江、
横江、瀬古(いずれも海津市海津町)に加えて、
鹿野と大和田、駒ケ江、長瀬(前同)のそれぞれ
半分ずつ与えられました。翌11年9月には松ノ木
など現在の海津町、平田町にて、合計3000貫文
余りの知行を命ぜられています。小牧・長久手の
戦いでは、居城であった松ノ木城の守備や周辺
地域への敵の侵攻を防ぐ役目を担い、家康や信雄
への情報提供など当地における対秀吉勢力として
重要な位置を占めていました。なお、天正14年に
実施された尾張・伊勢地域の検地では大半の領主
の知行替えが行われましたが、氏吉は旧領を動か
ず松ノ木に留まりました。これは当地での働きが
評価されたものとみることができます。天正18年、
秀吉の転封命令に従わなかった信雄が失脚する
と、同時に氏吉も領地を失い、加藤清正に従って
一族とともに熊本へ移りました。朝鮮半島などの
出兵にも参加して武将として名を残し、のちに清正
十六将のひとりに数えられています。信長・秀吉・
家康らと同時代を生き抜いた氏吉は、元和6年
(1620)病気のため長崎で没しました。



城跡は全く残されておらず、その所在地についても
諸説あるものの、学術的な調査が行われていない
ため推測の域を出ていません。築城の時期や築城
者は不明ですが、16世紀後半には吉村氏の居城
となっており、小牧・長久手の戦いの際、家康・信雄
方の要害として重視されました。吉村氏が退去した
後は徳永寿昌が在城しましたが、慶長5年(1600)に
徳永氏が高須城へ移った後は。城主不在のまま衰退
していったようです。  (写真は、松木とあったので)


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