山内一豊


一豊と千代夫人像

JR北陸本線坂田駅前

山内一豊公誕生地

愛知県岩倉市下本町

ここでの案内板によると。山内一豊は1545年岩倉城の
家老山内但馬守盛豊の二男として、この地誕生した。
1919年2月神明生田神社の遷座式に一枚の棟札が
発見され、これが一豊のこの地での誕生の有力な資
料となり、山内家では史家沼田頼輔文学博士に調査
を行わせ、岩倉のこの地を一豊誕生の地と認め、ここ
に贈従三位山内一豊公誕生地の碑を建てた。    
父盛豊は岩倉城落城(永禄2年3月)のとき戦死。一豊
15歳の時であった。その後、一豊は家臣の五藤浄基
が供で母や弟妹と共に苅安賀の城主浅井新八郎政高
の許に身を寄せ、しばらくして牧村政倫のもとに寄寓。
ついで山岡景隆に仕え、1567年〜1570年頃織田信長
に仕える。1584年には長浜で五千石の領主となり、 
長浜城


滋賀県長浜市
1590年遠州掛川に移封六万石の領主となった。
秀吉の死後徳川家康に味方し、1600年四国土佐
で二十万二千六百石の領主となり、高知城を築城。
そして、5年後の1605年9月21日山内一豊没す。


初所領の地

滋賀県東浅井郡虎姫町

天正元年(1573)夏、織田信長の越前朝倉攻めに
従軍した山内一豊は、近江と越前の国境刀根坂で、
朝倉軍きっての強弓の士、三段崎勘右衛門と死闘
を繰り広げます。三段崎が放った矢は、一豊の左の
まなじりから右の奥歯までを貫きましたが、これに
ひるむことなく、見事勘右衛門を討ち取りました。
そこへ家臣の五藤吉兵衛為浄が駆けつけ、一豊の
顔を貫く矢を口にくわえて抜こうとしましたが、
一豊が「顔を踏みつけて抜け」と命じたので、
為浄は草履を脱ごうとします。しかし、一豊は、
「そのまま踏め」と命令し、為浄は草履のまま
顔を踏みつけて矢を抜き取ったといいます。
討ち取った三段崎の首は秀吉のもとに持ち込まれ、
さらには信長の前で首実検が行われています。
一豊は、この武功により、近江唐国四百石の知行
を与えられました。近江唐国は、南に姉川を抱き、
北東に小谷山、虎御前山を望み、秀吉の領地である
長浜とは、わずか数キロを隔てた位置にあります。
その上、北国街道が通り北国への出入り地点として
重要な場所でもありました。わずか四百石とはいえ、
ついに念願の領主となった一豊。武将としての
出発点となったのがここ唐国の地でした。


山内伊右ェ門一豊屋敷跡


伊右衛門屋敷と山内一豊
明治6年(1873)の「長浜町地籍」によると、
当地の周辺は、字名を「伊右ェ門屋敷」と
呼んでいました。また、延宝3年(1675)
9月15日付け「長浜古城跡御検地帳」でも、
「伊右衛門屋敷」という地名が載り、この字名は
江戸初期からある地名であることが分かります。
「伊右衛門」は豊臣秀吉の家臣であった山内一豊
(1545〜1605)の通称なので、ここは秀吉が
長浜城主だった時代に、その屋敷があった場所
と伝えられてきました。山内一豊は、その妻・千代
の「内助の功」により、名馬を購入し、土佐国高知城
主二十万石の大名に出世したことで有名です。
彼は、天正13年(1585)から5年間、長浜城主
もつとめています。
このモニュメントは、一豊とその妻・千代が仲睦まじく
「夫婦円満」に「立身出世」していった事に因み
一豊と千代の夫婦像をイメージして建立しております。



滋賀県長浜市

神明生田神社

愛知県岩倉市下本町

名鉄・岩倉駅


平成18年NHK大河ドラマ原作「功名が辻」は山内一豊
と妻の、戦国痛快出世物語である。           

2006年NHK大河ドラマ「功名が辻」で、ヒロイン千代を
仲間由紀恵、夫・山内一豊を上川隆也、徳川家康を
西田敏行が演じることが決まった。          

山内一豊は、関ヶ原の戦いでは、小山軍議の席上、
諸将に先がけて居城掛川を明け渡し、東軍に供する
旨を表明。                          
その後、先鋒として尾張犬山城の攻略戦に援将とし
て参加したほか、決戦の9月15日には南宮山に拠る
毛利家本隊を牽制している。              





愛知県一宮市木曽川町黒田 法蓮寺の境内にも
山内一豊公出生之地の碑がある。         

山内一豊公出生之地


愛知県一宮市木曽川町黒田

法蓮寺


愛知県一宮市木曽川町黒田

山内但馬守盛豊・十郎父子の墓


法蓮寺
法蓮寺には、山内一豊の父と兄の山内但馬守盛豊
・十郎の墓がある。右側が父山内但馬守盛豊の墓。

黒田城趾


愛知県一宮市木曽川町黒田(黒田小学校)

山内一豊像

黒田城趾にて


山内一豊の妻が夫の立身のために馬を買う金を出
した話は、古来妻の内助の功として有名。     

一宮市木曽川資料館



一宮市木曽川町黒田

山内一豊を中心に一宮市域の戦国武将を展示。


牧村城址


山内一豊ゆかりの牧村城址
牧村城
16世紀の戦国時代、当地の小城あり、牧村牛之助政倫
(斉藤竜興の家臣)が居城していました。のちに政倫は、
牧村兵部利貞(利休七哲の一人)を継嗣にしました。
城址は、古記録に「村南にあり」とされており、この
付近と推測されます。

一豊のかかわり
土佐藩祖となった山内一豊は、15歳の時(永禄3年
1560)城主牧村政倫の元に身を寄せました。
一豊は、守護代岩倉織田家の家老山内盛豊
の子として生まれました。永禄2年、織田信長に
攻められ、岩倉城は落城し、父と兄は討ち死にしました。
一家は流浪の艱難の時、当地に寄寓しました。

出世の足がかり
一豊は、政倫が敵に襲われた時、水色の帷子鉢巻き
姿で馬に乗って襲撃するなどの武功をたてました。
また、地道で誠実な人柄を高くかわれ、秀吉
の家来になりました。その後、妻千代の内助
の功もあり、土佐24万石の大名にまで出世しました。
牧村城は、若き一豊が激動の中を過ごし、政倫
や西美濃の諸武将から貴重な人生を生き抜く才知
を学び、出世の足がかりになるところでありました。


岐阜県安八郡安八町牧、円長寺

山内一豊・千代 婚礼の地

岐阜市・岐阜公園

千代の鏡と一豊の出世
千代が一豊に嫁ぐ際
「夫の大事に初めて之を使うように」
と言い含められ
鏡箱に金十枚を忍ばせ持参した
貧しい暮らしながらも
千代は決して
その隠し金を使わなかった
ある日市に出された名馬に
一豊は釘付けになる
値は誰も手が出ない金十枚
千代は隠し金を一豊に差し出し
ついに一豊は名馬を手に入れる
信長家臣が競う馬揃えの晴れ舞台
信長から名馬とその心構えを讃えられ
一豊は出世を掴む事になる。

千代と長良川
長良川上流に位置する郡上八幡では
千代は初代八幡城主の娘といわれています。
水のまち郡上で育った千代は
幼少時に父親を亡くし
母親と共に各地を流転しました
岐阜長良川の地に嫁いできました
ひと雫から渓流へ
滔々たる流れから大海へ
千代の足跡を辿れば
まさに長良川そのものといえます
千代の心奥深くで輝き続けた
美しく優しく時に厳しい長良川
一豊にそそいだ千代の愛
それは長良川から授かった
清流のひと雫だったのかもしれません。


山内一豊と千代婚礼の地
永禄10年(1567)9月18日
織田信長が岐阜に本拠を移した時、
下級武士である山内一豊も岐阜
に移りました。
岐阜城下に居を構えた一豊は
時をおかず千代を迎え
新婚生活を始めました。

婚礼の日
「一国の主になる夢を二人で叶えましょう」
「生涯私だけを愛してください」
と誓いを交わし
その後、一豊は長浜・掛川・土佐の国主
へと出世していきました。



羽黒城

犬山市大字羽黒字城屋敷
羽黒城は、建仁元年(1201)梶原景親(梶原景時の
孫)によって築城されたといわれる。景親17代の末
孫梶原茂助景義は、織田信長に仕え羽黒村三千石
の領主となったが、天正10年(1582)本能寺の変で
信長に殉じ、梶原家は絶えた。天正12年(1584)
小牧山合戦の時、秀吉はこの城を修復させ、堀尾
茂助(金助の父)や、母方の法秀院が梶原家の出
生と伝えられる。山内猪右衛門(一豊)等に守らせ
たが、焼けてのち廃城たなった。現在地は、羽黒城
の中核的な部分があったと考えられ、前方後円墳
の前方部を利用したものと推定される。なお、
この古墳は古墳時代後期のものと思われる。




犬山市大字羽黒字城屋敷

山内一豊の母、法秀尼のふるさと
興禅寺は、鎌倉時代の源頼朝の重臣、梶原景時が
建てた寺で、隣接する羽黒城はその子孫が建てた
ものである。1584年小牧・長久手の戦いで、秀吉軍
は犬山城を本陣とし、小牧城の家康軍と対峙した。
一豊の妻、千代に大きな影響を与えた法秀尼は、
梶原氏の出身であったと伝えられている。


山内一豊公母の墓

米原市

なお、織田信長の母土田御前の出生地と、
羽黒城は数キロしか離れていない。


土田御前

岐阜県可児市土田

土田城 
織田信長の母土田御前の出生地。
なお、尾張国海東郡土田説もある。




                             
土田氏は明智氏の家臣であったともいわれ、
また、織田信長の正室「濃姫」の母「小見の方」
は明智家の女性であり、明智・土田両家なしに
は織田家を語ることができない。



稲葉正成は、春日局と離婚の後は、山内一豊の弟に
あたる山内康豊の娘を後妻とする。            
なお、一豊に嗣子ができなかったので、弟・山内康豊の
長男・忠義がその養嗣子となり、土佐国高知藩の第ニ
代藩主となる。                         

春日局

東京都文京区春日

明智光秀と深い関係がある春日局の元夫とつながり
のあった土佐藩主となった山内家。          
また、春日局の斎藤家も一豊の妻の遠藤家とつなが
りがあったと思われます。                

その土佐から、明智左馬助の子孫を称している坂本
家の坂本竜馬を輩出している。             

その坂本竜馬は、前土佐藩主・山内容堂(14代藩
主)を説いて、1867年、大政奉還を実現させたとい
われる。                         

坂本竜馬・中岡慎太郎の像

京都市東山区



酔って候は容堂について
書かれている。      

なにやら歴史の因果というか、巡り合わせのような
ものを感じるのですが!                


ちなみに、板垣退助も土佐出身である。    
板垣退助遭難の地

岐阜市・岐阜公園

大通院

京都市右京区花園(妙心寺内)



山内家の菩提寺

山内一豊陣跡

関ヶ原



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