忠臣蔵

時代背景
1600  関ヶ原の戦い
1603  初代将軍・家康就任
1604  徳川家光誕生する
1605  2代将軍・秀忠就任
1616  家康没
1623  3代将軍・家光就任
1641  徳川家綱・吉良上野介義央誕生する
1643  春日局・天海没
1646  徳川綱吉誕生する
1651  家光没、4代将軍・家綱就任
1659  大石内蔵助良雄誕生する
1667  浅野内匠頭長矩誕生する
1680  5代将軍・綱吉就任

       松平八代徳川歴代将軍位牌堂
    
          岡崎市鴨田町・大樹寺

    歴代将軍の等身大の位牌がある。
    綱吉(1646-1709)の位牌の高さは124cm。
    

1701  浅野内匠頭・刃傷
             松之大廊下跡
    
        
 東京都千代田区(皇居東御苑)
1702  吉良邸討ち入り
             吉良邸跡
    
             東京都墨田区両国3

            赤穂浪士休息の地
    
           
 東京都江東区佐賀
                
永代橋
    
           
東京都江東区佐賀
         
赤穂浪士が渡った橋として有名
1709  綱吉没
1748  大阪・竹本座にて「仮名手本忠臣蔵」
     人形浄瑠璃初演

天海・春日局が亡くなった約60年後、家光が亡くなって約50年後。
家光の子、綱吉が5代将軍の時。
天海の影響力は、家光が亡くなるまでか。かろうじて家光の子ども
までか。
天海の影が薄くなりかかった頃にこの事件は起こった。
しかも、忠臣蔵の吉良邸討ち入りは、本能寺の変に酷似している。
そして、吉良邸討ち入り後、46年後、大阪・竹本座にて「仮名手
本忠臣蔵」人形浄瑠璃初演。


登場人物について見ていきたいと思う。

浅野内匠頭長矩
「忠臣蔵」のもとになった播州赤穂の浅野長矩の祖は清和源氏
頼光流土岐氏という。光秀との関係も出てくる。
浅野家は、秀吉の妻・ねねの実家。秀吉の晩年には浅野長政は5奉行
の一人として活躍。


          
          
浅野長政公邸跡            袮々の水
          
 共に愛知県一宮市浅野(浅野公園内)

関ケ原の合戦では東軍に属している。
ねねが東軍についたためか。浅野氏が清和源氏頼光流土岐氏のためか。
(光秀に近いためか)
浅野本家は広島に封ぜられ、内匠頭長矩は赤穂に封ぜられた浅野家の
分家にあたる。

                 浅野内匠頭長矩邸跡
        
                 中央区明石町

               浅野内匠頭の墓
        
              
東京都港区高輪2(泉岳寺)

              浅野内匠頭終焉之地
        
                
東京都港区新橋4-31

               浅野内匠頭墓所
        
                    高野山

        

刃傷事件を起こした浅野内匠頭の身柄は、一関藩主田村右京大夫建顕に
預けられ、将軍徳川綱吉の命により、即日切腹。
辞世「風さそふ花よりもなほ我はまた
         春の名残を如何にとかせん」を残す。

散り残る上野介をいかんともしがたいのが無念であると解釈されていますが、
春の名残りの春は、春日局を暗示していることはないだろうか。

なお、幕末の一関藩邸の近くには、「遠山の金さん」こと遠山左衛門慰景元
の屋敷があった。ここにも縁を感じる。

余談ですが、浅野内匠頭終焉之地から300mくらい先の港区愛宕には、
葵の紋の愛宕神社(下の写真左)があり、その隣には桔梗の紋の真福寺
(下の写真右)がある。葵と桔梗の紋でこの地域を見守っている感じである。
このあたりにも歴史の秘密を解くかぎがあるのかもしれませんね。

大石内蔵助良雄
学研「俊英明智光秀」の永井寛氏の追跡・光秀の末裔参照。
熊本駅近くの細川家ゆかりの安国寺に保存されている「土岐系図」
である。その寺は、光秀の子明厳梵鉄和尚が開山したものという。
その系図には、光秀の側室として公家原仙仁の娘があげられている。
この原仙仁が何者なのかよくわからない。
その長男は松寿丸とある。
次男は秀寿丸は三宅藤兵衛を名乗り、その後細川忠興に仕えて肥後
に住みついたという。恐らく、この人物が明厳梵鉄和尚ということ
なのであろう。
不立は三男である。
四男は於鶴丸。
五男は光保。
六男は浅野内蔵助で、「忠臣蔵」で有名な大石良雄の祖父という。
疑わしいところもあるということだが。
大石内蔵助良雄は光秀の子孫ということになる。

                大石内蔵助良雄
         
                     東京都港区高輪2(泉岳寺)

そして、大石良勝(良雄の曾祖父)が浅野長重(長矩の曾祖父)
に仕えてから大石家は浅野家の歴代の家老になった。


             大石内蔵助良雄の墓
        
                    東京都港区高輪2(泉岳寺)

               大石良雄遺髪塚
        
             京都市山科区西野山桜馬場

                  大石良雄宅址
        
               京都市山科区西野山桜馬場

                    岩屋寺
        
              京都市山科区西野山桜馬場

        本堂には、智証大師自作の不動明王(伝え)、
        浅野内匠頭、四十七士のお位はいを祀っている。

                   大石神社
        
              京都市山科区西野山桜馬場

寺坂吉ェ門
赤穂四十七番目の義士、寺坂吉ェ門は足軽のため、切腹を免れ、討ち入り後、赤穂
に報告に行き江戸に帰らず、永源寺(滋賀県東近江市永源寺町)で僧侶になり、
ここで没した。
                    墓所
        
             滋賀県東近江市永源寺

        

ここには、織田信長が愛した”お鍋の方”屋敷あった。

                 おなべ館遺跡
        

        
              東近江市永源寺高野町

寺坂吉ェ門が、この地を選んだのは、偶然だろうか。
大石内蔵助良雄が、光秀の子孫であるかもしれないと思うと、
寺坂吉ェ門が、この地を選んだのは意図があるように思えるのだが。

               

吉良上野介義央
吉良家は足利家の流れをくむ名門で戦国期には大名の今川家との縁戚
を重ねた。
              吉良上野介義央公
        
                 東京都墨田区両国3
江戸時代になると大老の酒井忠勝の姪を妻に迎え、これが義央の母となる。
義央は有力な外様大名である米沢上杉家から嫁をもらい、実子の綱憲を
上杉家へ養子に出し、綱憲の子の義周を養子としてもらい上杉家との関係
を深めた。

        
                愛知県西幡豆郡吉良町

                   華蔵寺
        
              愛知県西幡豆郡吉良町

仮名手本忠臣蔵
「仮名手本」とは「いろは47文字を平仮名で書いた、習字の手本。」
いろは47文字が赤穂浪士47士にかけられ、忠臣の手本という意味
で付けられたわけである。

いろは47文字を7文字づつ区切ってみる。
いろはにほへ
ちりぬるをわ
よたれそつね
らむうゐのお
やまけふこえ
あさきゆめみ
ゑひもせ

一番最後の文字をそれぞれ取ってみると「とかなくてしす」となる。
つまり「咎なくて死す」となる。
「赤穂浪士たちは咎もないのに幕府の命令で切腹になった」という
幕府への批判をしたのである。当時、幕府批判は許されておらず、
こういった言葉遊びをしたのである。

この他にも作者たちが訴えたかったことがあるに違いない。

登場人物は、
浅野内匠頭長矩は塩谷判官高貞。
吉良上野介は高武蔵守師直。
大石内蔵助は大星由良之助
また、加古川本蔵なる人物も登場する。
以上のようになっている。



この加古川をさかのぼると、上流には佐治川があり、近くには春日局
の生誕の地とされる春日町がある。
もう一方、大星由良之助からは由良川が連想出来る。由良川は福知山
の町中を通って日本海へと流れていく。福知山はかつて明智光秀
の城下町のあったところである。大石内蔵助が光秀の子孫であるこ
とを連想させようとしているのだろうか。

 福知山城に行かれた方は、ご存知だと思いますが、お城のすぐ側を
由良川が流れているのだす。(地図で確認してみてください。)

         
      
由良川からの福知山城    福知山城からの由良川

さらに、
5段目の「山崎街道」の場。「山崎」という地名は、
光秀にとって天王山となった「山崎の合戦」を想像させる。

9段目の「山科閑居」の場。山科には、明智光秀の胴塚が存在し、
天海ゆかりの天台宗の毘沙門堂も存在する。

10段目は、歌舞伎では「天河屋」と呼ばれる。文字として見ると、
「天海」を想起させる。

11段目には、鎌倉の光明寺泉岳寺をさすものとして登場する。
光明寺には明智光秀の4文字のうち2文字がある。

                 泉岳寺
       
           
       東京都港区高輪2

さらに、仮名手本忠臣蔵は1748年8月大阪の竹本座で人形浄瑠璃と
して初演されているが、前年の1947年、光明寺を菩提とする内藤家
日向に移封になっている。日向から明智日向守光秀を連想させよ
うとしたのだろうか。

岩辺晃三氏の「複式簿記の黙示禄」参照。

また、泉岳寺は、朽木稙綱以来、将軍家光の命により朽木氏が面倒を
見た事から、朽木家が筆頭檀家となっている。

是非、関ケ原の戦いのページの朽木氏の所も参考にしてください。


以上、このように見てくると、
この事件は、様々な原因があるだろうが、天海が明智光秀あること
を消し去ろうとする幕府と、何らかのかたちでそれを残そうとする
者の間で起きたような気がしてならない。


              片岡源五右衛門の墓
       
              名古屋市千種区・平和公園

赤穂四十七士の一人。尾張藩士熊井重次郎の二男としてうまれ、
浅野家の家臣片岡六右衛門の養子となる。そして藩主浅野内匠頭
の小姓頭を務めた。赤穂藩断絶後同志達と吉良上野介を討ち取り、
元禄16年(1703)主君の後を追って自刃した。

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