中濃三城


安桜山城

関市

安桜山城(関城)の由来
関市の中心部にある安桜山は標高152mの陵線
のなだらかな山である。山頂には、永井藤左衛門
長弘が、享禄元年(1528)安桜山城(関城)を築い
たと伝えられている。その後は、城主は永井隼人
佐道利に移り、戦国時代に織田信長によって攻め
られた事はあまり知られていない。永井隼人は
中濃地区から東濃可児郡あたりまで勢力を持ち、
斉藤道三とは義弟にあたるので斉藤家が最も信頼
する武将で、信長との数度の合戦には総大将格で
出陣していた。永禄年間の中濃地方は、堂洞城
(現、美濃加茂市蜂屋)、加治田城(現、富加町
加治田)、安桜山城とが互いに同盟を結び、信長
の侵略に備えていた。永禄8年(1565)信長は中濃
に大軍を率いて、侵攻してきたが、加治田城主が
同盟を破り信長に通じたため堂洞城は孤立し遂に
落城した。永井隼人は智勇にすぐれた武将で神出
鬼没の迎撃戦の末撃退したりした。ついに中濃の要
であった安桜山城も三方から攻め寄せられ、これに
抗しきれず退去し、以来廃城となった。永禄10年(1567)
稲葉山城(岐阜城)が落城すると美濃一円は信長の
支配下になった。乱世にあって終始一貫節度を貫い
た永井隼人は戦国の武将として高く評価されている。









加治田城

富加町加治田

加治田城
永禄年間(1558〜70)、稲葉山城主・斎藤龍興に
仕えた佐藤伊豆守忠能・右近衛門父子が築城。

加治田城跡
現在古城山加治田城跡(海抜270m)と呼ばれる
この山城は、戦国時代は却敵城とも呼ばれてい
ました。桶狭間の戦で今川氏を破った織田信長
にとって斉藤龍興が支配する美濃を攻略する
ことは上洛へ向けて重要な戦略でした。永禄7年
(1564)信長は清洲をたち美濃に近い小牧に
本拠地を移しました。信長の侵攻に備え、斉藤方
である関城主長井隼人正道利を盟主として、
堂洞城主の岸勘解由信周、加治田城主の佐藤
紀伊守忠能は、反信長の盟約を結んでいました。

加治田・堂洞合戦
美濃攻略に向けて犬山城を攻略した信長は、
永禄8年(1565)8月木曽川を渡り鵜沼城(大沢
基康)、坂祝町にある猿 城(多治見修理)を次々
と攻め落とし、いよいよ堂洞城へと進軍していき
ました。信長方への投降を断った堂洞城の岸氏
に対し、秋も半ばの旧暦8月28日午刻(正午)いよ
いよ攻撃が開始されました。信長は高畑の恵日山
に本陣を置いて関城から岸方へ援軍が来るのを
防ぎ、夕田と蜂屋より丹羽長秀らが、そして信長方
に寝返った加治田城主佐藤紀伊守の軍勢が北面
の加治田から攻め入りました。そして酉刻(午後6
時)、ついに堂洞城は落城しました。城主佐藤紀伊
守は反信長の盟約のため人質として娘の八重緑を
堂洞城の岸方へ養女に出していましたが、加治田
方は、開戦前日に加治田城からよく見える長尾
丸山でこの娘を竹槍で刺殺したとされています。
城を枕に義に殉じた岸勘解由と時勢を洞察して
領地を守った佐藤紀伊守。この対照的な先人の
行動は、それぞれ価値を持って人の生き方に
ついて語りかけます。佐藤紀伊守は堂洞城陥落後
8月29日には信長家臣の斉藤新五とともに、関城主
長井隼人の反撃を衣丸(現在の加治田字絹丸)
で迎え撃ち、翌日には関城も陥落させています。
中濃三城の陥落後、信長の命令により斉藤新五が
佐藤紀伊守の養子となり加治田城主をつぎました。
その後の佐藤紀伊守は永禄10年(1567)に隣の
井深村に隠居して仏門に入り、自らが加治田に
建てた龍福寺のために尽くしました。城主をついだ
斉藤新五は、信長の家臣として各地の戦闘に参加
し、天正10年(1582)本能寺の変で戦死するまで、
その一生を信長の天下統一に捧げました。その後
の加治田城は天正10年の加治田・兼山合戦を斉藤玄
蕃を大将としてしのぎましたが、玄蕃の死後に兼山城
主森長可の領地となり、廃城になったといわれている。






堂洞城

美濃加茂市蜂屋

堂洞城は蜂屋の城主の岩佐渡守信周のたて
こもった砦である、天下平定をめざして尾張から
美濃に攻め込んだ信長によって落城させられる。







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