長宗我部元親
天文8年岡豊(おこう)城(高知県長岡郡)に生まれる。父は国親、幼名を弥三郎という。
永禄3年22才の時、長浜で本山勢との戦いに初陣して武名を挙げた。翌年、国親にわかに
病を発して死去、元親は家を継いだ。
永禄6年はるばると美濃国から正室をむかえた。すなわち斎藤利三の妹である。
春日局の叔母にあたる。この婚姻は明智光秀も尽力したと伝えられている。
元親は早くから信長とよしみを通じていたが、天正3年には長子弥三郎に信長から信親の
名を貰っている。しかし、信長は、元親が四国一円をほぼ手中にしようとすると、土佐一国
と阿波半国を与えるから伊予、讃岐を返上せよと迫った。
天正10年6月2日、信長は本能寺で光秀に討たれ、天下は再び乱れた。
天正10年6月2日は、四国攻めの大将織田信孝が渡海する前日であった。
その後元親は、奮戦して天正13年遂に四国全土を制覇した。
しかし、家康・信雄と講和した秀吉は元親を攻め、結局元親は土佐一国のみを安堵されて
秀吉に臣従した。慶長4年5年19日京都伏見の自邸で死去した。
伝えによれば、明智左馬之助光春(秀満)の妾腹の子、太郎五郎が、近江国坂本城が
落城したため、土佐にのがれ、坂本城の地名、坂本姓を名乗って帰農した後に四代目が
酒造業に転じ、やがて町人郷士となったと言われる。斎藤利三の妹(長宗我部元親の妻)
を頼って土佐に向ったのではないだろうか。
長曽我部盛親陣跡
長曽我部盛親陣跡
土佐22万石の領主長曽我部盛親は、関ヶ原合戦の
際に西軍に属し、ここ栗原山に6000人の兵とともに
陣を敷きましたが、吉川広家の内通により、傍観軍
となり西軍の敗色を見て戦わずして帰国の途につき
ました。途中、牧田川金谷にて、松ノ木城主徳永寿昌
の軍600人、今尾城主市橋長勝の軍300人の東軍勢
との間に戦いがありました。
帰国後は、領主を没収され浪人となり、大坂夏の陣
では豊臣方で活躍しましたが、捕らえられ斬首され
ました。
岐阜県不破郡垂井栗原
盛親は、元親の四男。
戻る