長曽我部盛親


                         長曽我部盛親陣跡
                  

                             長曽我部盛親陣跡
                   土佐22万石の領主長曽我部盛親は、関ヶ原合戦の
                   際に西軍に属し、ここ栗原山に6000人の兵とともに
                   陣を敷きましたが、吉川広家の内通により、傍観軍
                   となり西軍の敗色を見て戦わずして帰国の途につき
                   ました。途中、牧田川金谷にて、松ノ木城主徳永寿昌
                   の軍600人、今尾城主市橋長勝の軍300人の東軍勢
                   との間に戦いがありました。
                   帰国後は、領主を没収され浪人となり、大坂夏の陣
                   では豊臣方で活躍しましたが、捕らえられ斬首され
                   ました。


                  
                       
岐阜県不破郡垂井栗原

                           盛親は、元親の四男。

長宗我部盛親


父の長宗我部元親から説明したいと思う。
長宗我部元親
 天文8年岡豊(おこう)城(高知県長岡郡)に生まれる。父は国親、幼名を弥三郎という。
永禄3年22才の時、長浜で本山勢との戦いに初陣して武名を挙げた。翌年、国親にわかに
病を発して死去、元親は家を継いだ。
 永禄6年はるばると美濃国から正室をむかえた。すなわち斎藤利三の妹である。
春日局の叔母にあたる。この婚姻は明智光秀も尽力したと伝えられている。
 元親は早くから信長とよしみを通じていたが、天正3年には長子弥三郎に信長から信親の
名を貰っている。しかし、信長は、元親が四国一円をほぼ手中にしようとすると、土佐一国
と阿波半国を与えるから伊予、讃岐を返上せよと迫った。
 天正10年6月2日、信長は本能寺で光秀に討たれ、天下は再び乱れた。
 天正10年6月2日は、四国攻めの大将織田信孝が渡海する前日であった。
 その後元親は、奮戦して天正13年遂に四国全土を制覇した。
 しかし、家康・信雄と講和した秀吉は元親を攻め、結局元親は土佐一国のみを安堵されて
秀吉に臣従した。慶長4年5年19日京都伏見の自邸で死去した。

 父・元親が伏見で亡くなると長宗我部盛親が土佐22万石を継ぐ。
翌年、関ヶ原の役が起こると、盛親は東軍につこうとするが、
家康への使者が近江で西軍に阻まれ、西軍に味方する他なくなってしまう。
この時代メールがあったら歴史は今とだいぶ変わっていたでしょうね。

そして1600年9月15日朝、関ヶ原の合戦に参戦。


だが、徳川家康に内応する吉川広家が前に居座って動かず、実際の戦闘には
加わることが出来ないまま、敗戦を向かえる。

なんとか土佐に逃げ帰った盛親は、親しい関係であった井伊直政を通じて家康に
謝罪しようとするが、兄・津野親忠を殺害してしまい、家康の怒りを招き領土没収
となった。このとき親忠は藤堂高虎を通じて家康にはたらきかけ、長宗我部氏存続の
内意を得ることができたというのだが。



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