筒井順慶
筒井順慶
1549年3月31日〜1584年8月11日
順慶のもとには光秀の子が養子としていっている。
SF作家の筒井康隆はこの子孫。
「洞ヶ峠を決め込む」、日和見の代名詞として知られる順慶である。
郡山城跡
大和郡山市城内町
郡山城跡
郡山城は、天正6〜7年(1578〜1579)に筒井順慶
が縄張りをおこない、同8年の一国一城令に基づき
拡張、同11年は天守閣も完成をみた、同13年、
豊臣秀長が入部して、さらに拡張され、文禄5年
(1596)には増田長盛による秋篠川の付け替えが
行なわれ、外堀を一周させ城下町の完成をみるに
至った。関ヶ原戦後、長盛が改易され、大阪夏の
陣以降、水野勝成がさらに松平、本多が入城し、
享保9年(1724)以降、幕末まで、柳澤15万石の
居城として栄えた。現在のこる縄張りは、秀長時代
のもので、左京堀、鰻堀、鷺堀で囲まれた本丸、
二の丸、三の丸などが、城内でそれ以外の外堀に
囲まれた地域が城下となる。なお、史跡として指
定されているのは、本丸、毘沙門曲輪、法印郭、
玄武郭、陣甫郭及びその内堀である。
洞ヶ峠を決め込む
明智光秀は、山崎の合戦で恩顧をかけていた筒井順慶に協力を求めるが、
順慶はこれを断り、光秀は合戦に敗れる。
洞ヶ峠
京都府八幡市八幡南山
このとき、順慶は山城、摂津、河内の国を見おろす洞ヶ峠に駐屯して戦局
を傍観、豊臣秀吉勝利と見るや直ちに峠を下り、秀吉に見方したことから、
日和見の代名詞「洞ヶ峠を決め込む」の語を生んだ。
しかし、実際この地にいたのは、筒井順慶ではなく、順慶の参陣を待つ
明智光秀であった。
筒井順慶陣所跡
京都府八幡市八幡南山
SF作家の筒井康隆はこの子孫。
元の木阿弥
またもとのとおり。
筒井順慶の父順昭は1551年、順慶の3歳の時に病死。順慶が幼少だった
ために遺言で喪を秘し、奈良に住む木阿弥を身代わりにした。
やがて影武者の役目を果たした木阿弥は市井の身に戻り、もとの木阿弥に
かえったという故事にちなむといわれる。
筒井城
光専寺
筒井順慶公木像安置
筒井順慶墓
織田信長墓所の隣にある。
和歌山県伊都郡高野町高野山
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