筒井定次


筒井定次
筒井順慶の死後、定次が跡目を継ぐ。
関ケ原の戦いでは東軍についく。

筒井順慶についてすこし見てみたいと思う。

筒井順慶

1549年3月31日〜1584年8月11日
順慶のもとには光秀の子が養子としていっている。
SF作家の筒井康隆はこの子孫。
「洞ヶ峠を決め込む」、日和見の
代名詞として知られる順慶である

「洞ヶ峠を決め込む」
明智光秀は、山崎の合戦で恩顧をかけていた筒井順慶に
協力を求めるが、順慶はこれを断り、光秀は合戦に敗れる。
このとき、順慶は山城、摂津、河内の国を見おろす洞ヶ峠に
駐屯して戦局を傍観、豊臣秀吉勝利と見るや直ちに峠を下
り、秀吉に見方したことから、日和見の代名詞「洞ヶ峠を決
め込む」の語を生んだ。しかし、実際この地にいたのは、
筒井順慶ではなく、順慶の参陣を待つ明智光秀であった。

 

筒井順慶は光秀の死後、羽柴秀吉の家臣
となり、大和国の所領は安堵された。
山崎の合戦後、2年後、1584年8月11日、
36歳という若さでなくなる。

関ケ原の戦いにて東軍に寝返った小早川秀秋
も戦いの2年後1602年死亡している。
天の仕組みはこのように出来ているのだろうか。



筒井定次は関ケ原の戦いでは東軍についたが、
その後、豊臣秀頼に接近。

徳川家康に忌避され、ついに改易、絶家へ。

徳川家の中に明智のゆかりの者を見たため、豊臣秀頼に通
じようとしたのだろうか。そんなことが想像出来そうだが。  
それとも光秀を見捨てた報いが筒井家に来たのだろうか。 


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