津島湊
戦国時代の津島は「信長の台所」と称し、織田信秀・
信長に経済的支援を惜しまなかった。
津島市
天王川の上流は、萩原川・渕高川と呼ばれ、約五百
年前、この辺りは三百メートルほどの広さの川幅で
あった。津島神社参詣の人々のために天王橋(幅三
間・長さ七二間)が架けられ、その両岸には数千軒
の町屋が並び、数千艘の出船入船で活気を呈した。
津島湊はこの一帯で広さ五〜六ヘクタールに及ぶ当
地方随一の湊町・門前町として頗る繁昌した。
商都津島を支配した勝幡城の織田家は、信定・信秀
と次第に勢力を広め、信長は天下布武をとなえ天下
統一の基礎を築いた。信長は天王橋から津島天
王祭を見物した。また、江戸時代になると、代々の
殿様も見物に訪れて、たいへんなにぎわいであっ
たという。天王川は、天明五年(1785)に水害
防止のためここでしめ切られ埋立地に町ができた。
1575年設楽原の戦いの時、使用された鉄砲は、
3000丁といわれる。これだけの数の鉄砲を調達
できた理由はこのあたりにあるのではないか。
ところが、京都は、応仁の乱(1467〜1477)で、
何度も放火され焼け野原と化して荒廃していた。
天王川お旅所
天王川お旅所
旧暦6月14日(今は7月第4土曜日)の宵祭りの日「天王
さま」がみこしで神社よりおでましになる場所である。
1785年ここに堤防がつくられるまで天王橋(130mの
大橋)がかけられており、織田信長も橋の上から
祭り見物をしたと伝えられている。なお、このあたりは
800年ぐらい前(鎌倉時代)「津島の渡り」(伊勢の
国から津島へ)といわれて湊町としてにぎわったという。
宵祭
朝祭
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