石田三成


石田治部少輔出生地
石田治部少輔出生地
滋賀県長浜市

石田三成公屋敷跡

滋賀県長浜市

石田三成
豊臣政権、五奉行の一人。幼少より、豊臣秀吉に
仕え、1583年の賤ヶ岳の戦いの功により重用される。
文禄・慶長の役などに出陣。太閤検地の施行などを
担う。1590年、佐和山城主となる。豊臣秀吉の死後、
徳川家康と対立し、関ヶ原の戦いに敗れる。



石田三成産湯の井戸
石田三成産湯の井戸

秀吉・三成出逢いの像
秀吉・三成出逢いの像
長浜駅前

秀吉公と石田三成公出逢いの像
長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩の途中に観音寺
(米原市朝日町)へ立ち寄りました。汗をかいた
様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな
茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。
秀吉がもう一杯頼むと、少年は先ほどよりも少し熱い
お茶を、茶碗に半分ほど差し出しました。そこで
秀吉公は、さらに一杯所望したところ、今度は
小さな茶碗に熱いお茶を入れて出しました。
秀吉公は茶の入れ方一つにも気を配る佐吉少年
を気に入り、召し抱えました。この少年が後の
田三成公で、この話は「三献の茶」として、今も
語り継がれています。三成公は、ここから5km東
の長浜市石田町の土豪の子として生まれ、今も
出生地辺りには官名にちなんだ治部という小字
が残っています。また観音寺には、茶の水を
汲んだと伝えられる井戸が残されています。




三献茶
ためしに秀吉が少年に、「何ゆえ三度献じた茶に変化
を与えたのか」と問うと、少年は秀吉が予想した通りの
ことを誇るように答えた。それも自ら考えてそうしたという。
秀吉は、この機転にも感心したが、むしろ自らの才覚を
主張してはばからない清々しさと、領主であると知り
ながら堂々とそれをやってのけた胆力を気に入った。

和田竜「のぼうの城」より

水汲みの井戸

米原市朝日1342



石田三成二万の軍勢に、たった二千で立ち向かった男が、いた。

石田三成像
石田三成像
滋賀県長浜市




石田三成陣地
石田三成陣地
笹尾山の頂き付近

石田三成公辞世の歌
石田三成公辞世の歌
滋賀県長浜市

筑摩江や芦間に灯す          
かがり火とともに消えゆく
         わが身なりけり


和田神社




滋賀県

和田神社の境内の大銀杏は、関ヶ原で破れた石田三成が
京都へ護送の途中につながれたという伝えがある。
和田神社のいちょう
樹高約24m、目通り周囲約4.4m。
樹齢は約600年を経ていると推定。


石田三成菩提寺
石田三成菩提寺


滋賀県彦根市



石田三成像
石田三成像
菩提寺内

頂上に向う途中
頂上に向う途中

佐知山城趾
佐知山城趾



佐知山城趾からの眺め
佐知山城趾からの眺め
中央に見えるのが彦根城
佐和山城は、井伊氏の彦根築城の際に徹底的に
破壊され、石材等は彦根築城に流用された。   


五先賢の館

長浜市北野町1386

三成、古橋で捕縛される


五先賢の館にて

三成は、母の菩提寺の三珠院に頼ったものと
思われるが、やがて村人の知るところとなり、
百姓・与次郎太夫の案内で山中の岩穴に
潜伏した。秀頼を擁して再起しようと考えたが、
人の知るところとなり、三成はもはや天運の
尽きたることを悟り、通報させることにより、
これまでの好意に報いた。かくしてこの辺り
を捜索する田中吉政の手下により逮捕された。
また、他説によれば、与次郎太夫の養子が密告
したため、ついに三成は捕らえられたという。
関ヶ原戦に敗れてから6日目の9月21日である。



大徳寺三玄院

京都市北区

石田三成公御墓地




石田三成二万の軍勢に、たった二千で立ち向かった男がいた。


石田三成墓所

高野山


辰姫

ねね

神戸市北区有馬町

石田三成の三女。弘前藩2代藩主津軽信牧の室。
豊臣秀吉の死後に秀吉の正室・高台院の養女となる。



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