前田利家


前田利家公初陣之像


名古屋市中川区

成巽閣の梅の木


この梅の木は、金沢の兼六園「成巽閣庭園」に育った
由緒ある梅の木です。この度「前田利家公の銅像」
建立を記念して前田家より贈られました


前田城址
前田城址
名古屋市中川区前田西町(速念寺)

前田速念寺の由来
ここはもと海東郡前田村と言い、前田城があり、前田氏
発祥の地である。利家公も前田で生まれ、幼少にして
前田城の出城、新設の荒子城に移って成長したという
のが寺伝である。前田氏は菅原道真公を祖と仰ぎ、
梅鉢の紋を用いる。前田氏は織田信長に属し、西に
蟹江城、東に荒子城、南に一色城、等を支配し、
前田城はその中心であった。前田城は、天正12年
長久手の合戦ののち、秀吉方についたため、家康方
の攻撃を受け落城、城主前田与十郎は蟹江で討死。
その子長種は北陸にのがれて利家に仕え、一万石(
のちに二万石)を得た。利家の長女幸(こう)を妻とした。
利家の叔父前田利則は、出家して意休と号し、浄土真宗
速念寺初代となり、速念寺は前田氏の鎮魂の寺となった。




前田氏の発祥の地には2説あり、ひとつが尾張国海東郡
前田村説ともう一方が美濃国安八郡前田村説である。




荒子城址
荒子城址
名古屋市中川区荒子町

前田利家の出生地については、前田城で生まれ7歳の時、
荒子城に移ったという説と荒子城で生まれ育ったという2説。

前田利家
織田信長に仕える。賎ヶ岳の戦いでは、柴田勝家を
離れ、豊臣秀吉につく。五大老の一人。秀吉死後は
秀頼を補佐するも、関ヶ原の前年1599年亡くなる。
子の利長は関ヶ原の戦いで東軍に属し、所領安堵。   

森部合戦





森部合戦の古戦場・薬師堂
永禄4年(1561)織田信長は西美濃を征服しようと、
本郷村より長良川を渡って森部村に進出、斎藤龍興
の軍と戦いました。斎藤軍は6000人に対して、織田軍
1500人で対戦し、墨俣の下宿から押し寄せてきた
斎藤軍を信長は味方を三手に分け、敵をはさみうち
にして破りました。この戦いで前田利家は、以前から
の勘気を解かんものと、一番に敵陣に討ち入り、
首級二つ信長に差し出し、ようやく許されました。
従って利家にとって出世の門出となる戦いでした。
森部城主河村久五郎らの働きにより斎藤軍の戦死者
320人に対して織田軍はわずかの死傷者で大勝利
でした。その首実検をしたのが、薬師堂前で、戦死者
が祀られています。「鎧掛けの松」は首実検のおり、
信長が鎧を掛けた松として伝えられています。
現在は二代目です。         (案内板より)



岐阜県安八郡安八町森部



前田利家邸址



安土城

別所山砦跡


天正11年(1583)の賎ケ岳合戦において、別所山
は柴田勝家方の陣地として、七尾城主であった
前田利家と府中の城主であった前田利長父子が
僅か2ケ月余で砦を構築したところである。柴田
勝家の玄蕃尾城の本陣より、行市山頂を経て
別所山・中谷山・大池山・林谷山の各陣地は、
尾根を人馬によって駆け抜けられる道によって
結ばれた強力な陣地として構築された。しかし、
柴田方はこれら強固な陣に依って戦うことは
一度もなく、余呉湖畔で敗北する結果となった。



一説に当所を佐久間盛政の与力、排郷五左衛門
の山寺山の陣とする説もあるが、越前府中城主・
前田利長の陣所は中谷山砦と著者は軍記類の記述
から推測しているが、北国軍の行市連峰の諸将の
陣所の記録は、諸書、錯綜しており行市山の他は
砦の主を完全に確定が出来ないのが現状であり、
従って当陣所城も伝前田利家の陣城と表現したい。




まつ(前田利家の妻)の生家と言われる
林氏日開常信家の屋敷跡

林氏日開常信家の屋敷跡
愛知県海部郡七宝町沖之島北屋敷

まつは、1599年利家の死後、出家して芳春院と称す

1600年、家康の誤解を解き前田家を守るために人
質として江戸に赴き、14年の歳月を人質として過ごす。
金沢に戻って3年後の1617年、71歳で死去。 
  


林氏日開常信家の屋敷跡
愛知県海部郡七宝町沖之島北屋敷

大徳寺芳春院

京都市北区

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