鳥居強右衛門

                  鳥居強右衛門
                           愛知県南設楽郡鳳来町

                  長篠城主の奥平貞昌の足軽。
                  長篠城が武田軍に囲まれた折、鳥居強右衛門が岡
                  崎の家康に
                  援軍要請した帰り、武田方に捕まる。
                  強右衛門は、武田勝頼に堂々と援軍が来ることを告
                  げ、感心した勝頼は、援軍が来ないと偽れば、命を
                  助けるとし、強右衛門はこれを受け入れ、長篠城まで
                  連れていかれる。

                  長篠城本丸跡

                  しかし、強右衛門は、援軍がもうすぐ来る、それまで
                  なんとか持ちこたえるよう大声で叫ぶ。
                  激怒した勝頼は、強右衛門を磔刑にした。

                  鳥居強右衛門

                  長篠城内は勇気づけられ、武田家敗走まで城を守り
                  抜く。
                  鳥居強右衛門はこの活躍により、後世に名を残した。


                        鳥居氏発祥地の碑
                  
                            愛知県岡崎市渡町東浦

                           鳥居氏一族の発祥地
                 鳥居氏は、松平・徳川氏のために数々の功績をたて
                 た譜代の忠臣です。
                 岡崎が今川氏の手にあった家康の苦難時代、家臣の
                 鳥居忠吉が今川方の城代の目をかすめて、主君が帰
                 城する日のために兵器や兵糧米をたくわえていた逸話
                 は有名です。
                 また、関ヶ原の戦いの直前、伏見城を守って討ち死に
                 した鳥居元忠も、家康の忠臣として名を残しています。


                              奥平貞昌
                  長篠城主の奥平貞昌は、鳥居強右衛門らの活躍に
                  より、城を死守した。
                  この功績により奥平貞昌は織田信長から一字をもら
                  い信昌と改名。
                  織田信長のとりなしで家康の長女・亀姫をめとり、
                  4男1女をもうけた。
                            加納城
                 
                          岐阜市加納丸之内

                               加納城
                 徳川家康は、慶長6年(1601)3月、娘婿の奥平信昌
                 を加納城主として十万石を与え、また亀姫の粧田とし
                 て二千石を給した。
                 築城は岐阜城落城の翌年で、岐阜城の館邸を加納に
                 移して修築した。本丸、二之丸、三之丸、厩曲輪、南曲
                 輪(大薮曲輪)、などを備え、関ヶ原戦後初の本格的城
                 郭であった。
                 加納城歴代城主は、奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、
                 安藤氏と変遷し最後の永井氏の時代に明治維新を迎
                 えた。明治2年加納城第十六代城主、永井肥前守尚服
                 が版籍を奉還し、加納藩は同年7月14日に廃藩に至っ
                 た。
                 加納城跡は、この本丸のほかは二之丸北側の石垣を
                 わずかに残している。


                 

                 


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