徳永寿昌


徳永寿昌墓碑

海津市海津町(広徳寺)

徳永寿昌は、天文18年(1549)、近江国(滋賀県)
徳永村に生れた。はじめ柴田勝豊に仕え、ついで
豊臣秀吉に従い、秀次配下として美濃国(岐阜県)
高松城(海津町松ノ木)に居住し3万石を領有した。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際には、徳川家康
の側にたち、石田三成方だった高洲(須)城、福塚城
(輪之内町福束)を攻略、さらに駒野城を攻撃中に
三成が降伏したので、そこの手中にし、戦功により
美濃尾張国内四郡のうち5万6百石を治めることとなり
居城を高洲に移し、高須城下の形成に力を尽くした。
慶長17年(1612)7月10日没、自らの開基となる広徳
寺に葬られた。徳永氏は、子の昌重の時、大阪城
修築に落ち度があって高須を追われるが、昌重の子
昌勝の時許されて幕府の旗本となった。この墓碑は、
宝暦10年(1760)寿昌の150年忌に子孫が建立。






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