督姫


徳川家康の娘。北条氏直に嫁ぐ。
氏直の死後、池田輝政と結婚。
5人の男児に恵まれた。


池田輝政

池田恒興の次男。織田信長・豊臣秀吉に仕える。
1584年、小牧・長久手の戦いで父・兄が戦死。 
その後、美濃大垣10万石を安堵され、岐阜城移
封を経て、三河吉田15万石余を与えられる。   
1594年には、徳川家康の娘督姫を継室とする。 
関ヶ原では、徳川方にくみし、戦後、播磨52万石
を与えられる。                     


池田恒興(信輝)、元助の墓

岐阜県揖斐郡池田町本郷

恒興は織田信長と乳兄弟であったので、信長に仕え、
永禄10年(1567)の稲葉山城攻略の戦攻をたてた。
さらに、信長が浅井・朝倉連合軍を破った元亀元年
(1570)の姉川の戦いで戦功を立て、大垣城に住み、
13万石の大名となったが、本能寺の変で信長が
明智光秀に殺された後、豊臣秀吉に味方して山崎
合戦で光秀と戦い、これを亡すために戦功をたてた。
池田恒興は勝入斎といって大垣城主となり、子の元助
が岐阜城主の頃、恒興父子は秀吉に誘われ、尾張の
長久手に出陣し、父子共に戦死を遂げた。時に天正12年
(1584)4月9日であった。法名は信輝、前紀州城守雄岳
宗英禅定門、元助、前紀州顕功英節禅定門、父子の墓
は大垣市林町にあったといわれるが、徳川氏の忌むと
ころとなり、出身地である当町に移され、現在地にある。

尚、恒興の長男は元助であり、次男が輝政である。輝政
は初めて池尻城主となり、大垣・岐阜・三河吉田城主を
経て、慶長5年(1600)姫路城主となる。輝政の次男
忠継が慶長8年(1603)備前国岡山城主となり、その
子孫が現在の岡山池田牧場主池田隆政氏(今上天皇
の姉・厚子妃の夫)である。       (案内板より)




池田輝政陣跡

岐阜県不破郡垂井町垂井




吉田城

豊橋市

吉田城
吉田城の歴史は、永正2年(1505)、今川氏の
被官であった一色城(豊川市牛久保町)城主の
牧野古白により、その前身の今橋城が築かれた
ことに始まる。(明応5年説もある)。
戦国争乱の世の中で、東三河の要であった今橋
城は、今川・武田・松平(徳川)ら戦国武将の
激しい攻防を繰り返す中で、名も今橋から吉田
と改められた。永禄8年(1565)、徳川家康は
今川氏の東三河における最大拠点であった
吉田城を攻略し、ここに酒井忠次をおいた。
天正18年(1590)、家康の関東移封によって、
池田輝政が15万2千石で入城し、城地の拡張
と城下町の整備を行ったが、慶長5年(1600)
関ヶ原合戦の後、播州姫路に所替えとなった。
幕藩期には東海道の要衝として、竹谷松平2代、
深溝松平2代、水野忠清、水野忠善、小笠原4代、
久世重之、牧野2代、大河内松平の松平信祝、
本庄松平の松平資訓、そして再び大河内松平
7代と譜代大名が在城したが輝政によって
拡張されたこの城も、財政的要因のため
完全に整備されないまま明治に至った。





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