徳川宗春






徳川宗春1696〜1764
元禄9年(1696)尾張藩主第3代藩主・徳川綱誠の
20番目の男子として名古屋城で生れる。奥州梁川
3万石の領主となるも、吉宗との間での8代将軍継承
問題で敗れた兄・7代藩主継友が享保15年(1730)
急死。梁川の領地を返上し、尾張徳川家を相続する。
就任直後に「温知政要」を著し、行き過ぎた倹約は
かえって庶民を苦しめ、消費こそが経済の活性化
につながるなどと主張し、吉宗の掲げる質素倹約を
基本方針とする享保の改革と正反対の内容であった。
城下に芝居小屋や遊郭を誘致するなど開放政策を
採り、倹約令で火が消えた街は活況を呈するように
なった。しかし、後に支出を続けた財政は悪化、歓
楽地なども縮小し、農民・商人に上納金の割り当て
を命じ、民衆の人気を失う。幕閣は宗晴失脚を画策、
最終的に花魁「春日野」の身請けが、直接の引き金
となり、元文4年(1739)、宗春は、吉宗から蟄居
謹慎を命ぜられ、明和元年没。(1764、享年69)







大須観音の隣にある。

大須観音

名古屋市中区大須


名古屋市・平和公園

東首塚・門

岐阜県関ヶ原町

仁王山護国院(現在の永平寺別院・名古屋市東区
代官町)にあった徳川宗春の霊廟山門の移築。









宗春ポスト

名古屋市中区栄







徳川宗春公は、享保15年(1730)35歳で、尾張藩
7代藩主となりました。庶民が心身共に豊かになる
ことを理想とし、規制緩和による積極経済を採用し
ました。また、基本政策理念を「温知政要」という
書物は著しています。結果、名古屋は空前の繁栄
をみせ、職人の町、芸どころの町である尾張名古屋
の基礎を築き、人々を活き活き伸び伸びさせました。







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