鉄砲
国友鉄砲の里資料館
滋賀県長浜市国友町
1549年、弱冠16歳の信長は、近江の国友村
に500挺もの鉄砲製作を依頼している。
本能寺
地方にも布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、
瀬戸内沿岸諸国さらに種子島(日典寺)まで公布した。
1543年、ポルトガル人、種子島に漂着し鉄砲を伝える。
島津氏の家臣で種子島の領主・種子島時尭は、鉄砲
の威力を見て、即座の2000両の大金を支払って二挺の
鉄砲を購入。その後、日本製の鉄砲を造ることに成功。
しかも、種子島時尭と島津貴久の妹の間にできた
娘・妙蓮夫人の墓と供養等は、京都の本能寺と
鹿児島福昌寺跡、国分遠樹寺跡にある。
島津義久夫人の石塔(一番奥)上段
島津義久夫人の石塔(一番奥)上段 島津義久は戦国
末期の島津家の当主で、薩摩・大隅・日向を領し、
北進して一時期は、ほとんど九州全域を制したが、
天正15年(1587)豊臣秀吉の征伐をうけて敗れ、
入道して龍伯と号し、秀吉に臣従した。石塔に刻ま
れた「円信院殿妙蓮幽儀」は夫人の戒名、また死
去の日は石塔左側面の刻銘で元亀3年(1572)
12月23日であることが知られる。当時の義久の権勢
を偲ばせて、この石塔はいかにも雄壮・華麗である。
信長は、鉄砲に始まり、鉄砲に終わった。
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