明智光秀のその後


 以上から見ると徳川家と明智家の間に何か特別の関係があったとしか考えられませ
ん。ここでこの鍵を解く人物にスポット当ててみたいと思います。ここで、光秀の姪のお
福(春日局)が家光の乳母になれた鍵をにぎる人物「天海」をみていきたいと思います。

                    天海大僧正
          
                   
比叡山延暦寺 東塔内

 天海は、幕府によって関東における天台宗の本山とされた、川越(埼玉県川越市)の
喜多院の住職となり、関東の天台宗管轄の全権を握った。

                      喜多院
          
                   
埼玉県川越市小仙波町

                      天海像
          
                        
喜多院
          喜多院にある慈眼堂には天海僧正木像が安置され
          ている。

          
          この喜多院には、徳川家光誕生の間と春日局化粧
          の間がある。

 家康の神号を「東照大権現」とすることを画策、日光山東照社の創建に尽力。そして、
僧侶として最高の大僧正になった。また寛永元年、将軍家忠の命を受け、東叡山寛永寺
を創建して開山となる。江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護
を構想したと言われる。


                   旧寛永寺五重塔
          
                      
上野動物園内

 寛永八年、九十六歳の天海は家康の十七神忌の導師を務めた。視力は衰えず、歯な
お落ちず、壮者をしのぐ元気があったというから、正に超人的である。天海は家康・家忠・
家光の三代にわたって、草創期の江戸幕府の宗教行政に大きな役割を果たして、百八
歳で天寿を全うした。
 そして、徳川幕府の「智恵袋」、「黒衣の宰相」と呼ばれ、徳川3代に仕えた天台宗の天
海大僧正が、明智光秀ではないかという噂が流布し始めたのは、徳川の世が落ち着いた
元禄年間初頭の頃からのようだ。
 重なる点がありますが、その根拠を挙げていきます。

1.慶長十八年、家康は天海に日光山光明帯一帯の寺領を贈った。天海は家康の死後、
光明院の跡に輪王寺を建て、そのそばに東照宮を建てたが、輪王寺が建ったとき日光山
に登り、男体山、中禅寺湖、華厳の滝などが一望できる景勝の地を「明智平」と名付けた。

2.徳川二代将軍秀忠、三代将軍家光の名には光秀を連想させる文字が隠されており、
家光の子である四代将軍家綱、五代将軍綱吉に共通する綱の字は明智光秀の父、光綱
の綱と同じである。

3.天海が明智光秀と同一人物と言われた背景のひとつは、家光の乳母であり、三代将
軍家光の時代に江戸城に君臨した春日局が光秀の最側近の斉藤利三の娘だったことに
ある。

4.川越喜多院の山門は、光秀と関係の深い近江坂本から連れて来られた宮大工により
建築された記録が残る。

                     喜多院・山門
           
                    
埼玉県川越市小仙波町

5.天海と晩年親交があった藤堂高虎の養子・高吉が慶長十三年に名張に津藤堂藩の藩
内領主として入城したが、この名張藤堂家の家紋は桔梗紋である。名張城の建っていた丘
を「桔梗ケ丘」と呼び、現在近くに近鉄の「桔梗が丘」駅があるが、これは天海・光秀同一説
を裏付ける残照ではないか。

               


            

                
近鉄大阪線・桔梗が丘駅

 *なお、藤堂高虎は、1573〜1576頃織田信澄(信長の甥)に仕えている。
 光秀の娘は、信長の命により、1574年1月、織田信澄に嫁いでいる。
 本能寺の変のあと、信澄の子(光秀の孫) は藤堂高虎にひきとられている。
 この時から、光秀と高虎の関係はどうだったのだろうか。

                       藤堂高虎
           
                三重県伊賀市上野・伊賀上野城内

6.比叡山麓の飯室の不動堂前に一基の石灯篭が立っている。これは裏山にある慈恵大
師の墓の前から移されたものだというが、その棹石に「奉寄進願主光秀」と銘記されており、
その横に慶長二十年二月十七日と刻まれている。この年は山崎合戦から三十三年後であ
る。

                      飯室不動堂
           
                     
大津市坂本本町4220
           
不動堂の方に光秀の灯篭がありますかと尋ねると、あると思いま
              すが、と答えられた。場所を教えていただけませんか。と再び尋ね
              ると
教えることは出来ませんと答えられた。
           
やはり、歴史の秘密が隠されているのだろうか。
           
灯篭の場所をご存知の方は、教えていただけませんか。

7.天海は死後慈眼大師の称号を贈られ、滋賀院の隣りの慈眼堂に葬られているが、生前、
坂本の町の復興には大いに力を入れ、日吉大社の南端の高地に東照宮を建てたり、町の区
画整理をやったり、光秀が坂本城主時代に仕残した町を東流する幾本かの水路を作っている。

                        慈眼堂
            
                        
大津市坂本4-6

                     慈眼大師供養塔
            
                        
慈眼堂内

さらに、京都府の京北町周山に慈眼寺という寺が(慈眼というのは天海僧正の諡号である)、こ
慈眼寺の釈迦堂には光秀の木像と位牌がある。

            

            木像は逆臣の汚名のためか、真黒に墨を塗られ、
            今は、その墨がはげて桔梗の紋がかすかに
            見えている。

            
                        慈眼寺

8.天海の書き残したものの筆跡と光秀のそれを比較してみるとあまりにもよく似ている。
  光秀が左手で書いていたのかも。

 TBSテレビ「世界・ふしぎ発見」「東照宮の謎-徳川埋蔵金伝説を追え!」(H12.8.5)の中で、
光秀と天海の筆跡鑑定があり、「同一ではないが、親子のような近親者」という結果であった。

                     天海僧正毛髪塔
            
                      
台東区上野公園内
  *不思議なことに上野恩賜公園案内図には、天海僧正毛髪塔の表示はなく、
   上野の森美術館の前方にある。
  *約1km離れたのところには、春日局のお墓(麟祥院)がある。

9.大阪府岸和田市五軒町の鳳凰山本徳寺という妙心寺の末寺がある。この寺は、もと貝塚の
鳥羽にあって大日庵という庵寺だったが、この大日庵時代に光秀が亡命してきて隠棲していた
ということで、鳥羽の俗謡に  鳥羽へやるまい女の命 妻の髪売る  十兵衛が住みやる 三日
天下の佗住居 というのが残っている。本徳寺には寺宝として南国和尚の描いた光秀の画像が
あり、それに光秀と親交のあった妙心寺や第九十世管長闌秀和尚の賛があり、その中に「機前
易地巨禅叢」と「世間から姿を変えて大伽藍の中にいる」という意味がうたわれており、日付は
山崎合戦から三十一年たった慶長十八年六月六日である。

                       本徳寺
            
                    
大阪府岸和田市五軒屋町

10.本徳寺に残っている位牌には「鳳岳院殿輝雲道王秀大禅定門」とあり輝雲の輝、道王秀に
光秀の二文字が隠されている。裏には慶長四 年 日とあるだけで月日の記入はない。生きて
いた人の位牌というしるしであろう。

11.本徳寺にある光秀の肖像画の讃の一文には、「放下般舟三昧去」とある。これは光秀が修行
三昧をしていたが、ここを去っていったという意味である。息子が住職となった寺で、光秀がしばらく
身を寄せていたと思わせる一文である。

12.京都府の京北町周山に慈眼寺という寺がある。慈眼というのは天海僧正の諡号である。こ
の慈眼寺の釈迦堂には光秀の木像と位牌がある。単なる偶然だろうか。

            

 以上の点をふまえると天海と明智光秀は、同一人物かあるいは光秀の志を知っていた明智一
族の誰かではないだろうか。また、そのことが、重要なことではないかもしれません。光秀の生き
方、思いがどう受け継がれていったかではないでしょうか。

(以前日テレ系の時空警察という番組では、天海=光秀としていた。)


松平七代清康(家康の祖父)の妹・久子は、家康が生母於大と生別して以来、家康を
養育した人である。


           

松平久子の娘(父は鈴木重直)は、遠山利景に嫁いでいる。利景の兄は、明智光秀の娘婿の明智秀満である。
天海=秀満であれば、家康との関係も出てくる。


 
  「あずみ」には、天海も登場する。小山ゆう氏の作品には「おーい、竜馬」もある。
 

 このように見てきた場合、光秀・娘のガラシャ・春日局等の人生は、何か見えざる手に操られる
かのごとく徳川家300年の礎を築く為に召されたとも考えることが出来るかもしれません。そして、
本能寺の変・関が原の戦い等すべてが、江戸時代に導く必要な出来事だったのかもしれません。
 そして、もし仮に光秀が、天海であったならば、我々の人生において考えさせることが多いよう
な気がします。会社でのトラブル・人生での問題に対して理想・信念を抱いていたならば、光秀が
天海になれたように、私達にも次なる世界が準備されているかもしれません。あるいは、問題に追
われるだけでなく、その課題に対して取り組む中で、新たなステージを準備することが出来るので
はないかと・…。幸いにも現代は、光秀の時代とは異なり、死と隣り合わせということはありません。
だからこそ、心を柔軟にして次のステップを求めないといけないもかもしれません。

          

 また、天海が、明智一族の者か光秀の願いを受け継いだ誰かだったとも考えられます。この場合
我々が人生に願いを込めて精一杯生きていたならば、そのバトンを引き継いでくれる者が現れるこ
とを象徴しているのではないでしょうか。人生の幸・不幸を嘆くのではなく、人生を大切に精一杯生き
ていたならば、意志を継ぐ者があらわれ、いつの時代にか必ずその花が咲くことを示しているのでは
ないでしょうか。


 さらに、光秀の思いは受け継がれていく。





                    桔梗物語へ戻る