多羅尾光俊


小川城

滋賀県

小川城跡は、信楽町大字小川字城山に所在してい
る。本城は、嘉元3年(1305)に鶴見氏によって築城
されたとの伝承があるが定かではなく、戦国時代には
多羅尾氏の勢力下に下り、文禄4年(1595)豊臣秀次
事件に連座し、領地を没収されたため廃城となった。
現在の遺構は、昭和53年度から54年度にかけて
実施した発掘調査によって、出土遺物から16世紀
後半に改修されたことが判明し。当時の城跡には
前例のない構造の礎石建物跡が見つかっている。
遺構から推測すると、この時期に多羅尾氏の元で
西北方向に展開する「西之城」「中之城」と共に大
規模な改修を受け、一体となって機能していたこと
が考えられる。また、天正10年(1582)の「本能寺の
変」の際、徳川家康が三河へ逃げる途中信楽で一夜
を明かしたのは、本城であったと伝えられている。









多羅尾代官陣屋跡


多羅尾代官は、寛永15年(1638)に多羅尾光好が
代官に任命され、信楽の多羅尾村にある代官信楽
陣屋という近畿地方の天領を治めるための役所を
設けたことに始まり、明治維新まで200年以上世襲
代官として続きました。この陣屋を「多羅尾代官所」
「信楽御役所」と呼び、歴代の代官は、近江・伊勢・
播磨国を中心に5〜6万石を治めました。



大光寺


山号を現象山という。天平10年(737)飛鳥内親王の
御願により、行基が創建し、聖武天皇の勅願徳川所
となったと伝えられている。本尊は地蔵菩薩である。
幾度かの火災にあい焼失したが、明和元年(1763)
現在の堂が再建された。東北八丁寺谷という所が
旧大光寺跡があるといわれている。正応4年(1291・
鎌倉時代)左大臣の宮を辞した近衛家基とその子
経平がこの地に隠れ住んだ。経平と土地の女との
間に生まれた子が多羅尾氏の祖高山太郎師俊で
ある。本堂裏山左方に家基、経平、師俊三代の
石碑が立ち並び近衛家の墓所として名高い。

近衛家の墓所




近衛前久は、近衛家基の子孫である。

H19.1.29TBS放映バチカンに眠る織田信長の夢
では、関白・近衛前久黒幕説を提示していた。

近衛前久は、本能寺前夜の茶会に出席している。

1585年、秀吉は近衛前久の猶子
として関白宣下を受けている。

前久は、秀吉に何か弱みを握られていたのだろうか。

京都御苑の北側・今出川御門近くに近衛家の屋敷跡がある。

近衛邸跡

京都市上京区(京都御苑内)



近衛邸

西尾市歴史公園

西尾城跡に移築されたのは江戸後期の近衛邸である。




戻る