田中孫作


田中孫作屋敷跡

米原市高溝

関ヶ原の合戦の直前、一豊は上杉討伐のため下野山
に布陣していた。このとき、大坂にいた一豊の妻・千代
は石田三成の挙兵を知らせる書状を夫・一豊に送った。
この書状を一豊に届けたのが、田中孫作であった。





山内一豊の忠臣「田中孫作」生誕地
山内一豊・千代夫人(見性院)の家臣として
見事な働きをし、山内家が大々名に出世するのに
功績のあった田中孫作定重は当地「高溝村」の
出身で、山内家文書「南路志」にもこのことが
記されている。一豊が掛川城主時代、家康に従って
上杉景勝を攻めている時、大阪にいた千代夫人は、
石田三成が家康追討の兵をあげたこと、及び自分
のことは心配せずに家康公に忠誠を尽くしてほしい旨、
したためた密書を同郷(千代夫人の生家は当地より
1kmほどのところにある)で最も信頼のおける田中孫作
に託して、下野宇都宮の一豊の陣へ届けさせた。
孫作は途中盗賊に衣類・刀・脇差を奪われるという
危険な目にあったが、無事大役をはたした。
この際、千代の一豊宛私信を引き裂いて紙縒り
とし、笠の緒に撚りこんだという話は有名である。
また、孫作は関ヶ原合戦時、一豊の命で西軍の
小早川秀秋の陣を訪れ、東軍につくように説得した。
この甲斐あって東軍の大勝利となり、主君の一豊
は土佐20万石の大々名に取り立てられた。
孫作の墓は京都妙心寺大通院の一豊・千代夫人
の御霊屋の脇にあり、あの世までも忠臣としてつき
従っている様には心が打たれる。墓石の裏には、
「元和3年12月4日逝」と刻されているが、この日は
千代夫人の命と一致するので、孫作は夫人に
殉じたちの説もあったが、山内家関連文書には
「寛永5年辰年7月4日病死」と記されているので、
その説は入れられない。孫作の子孫はそれ以後も
山内家の家臣として80石の家禄で召しかか
えられ、明治まで続いていた。


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