竹広激戦地
天正3年(1575)5月8日、武田勝頼は1万5千の兵を
率いて長篠城をとり囲んだ。城主奥平貞昌は城兵5百
とともによくこれを防ぎ、14日鳥居勝商の決死的な
脱出により、織田・徳川の援軍を得ることに成功した。
20日、武田軍は3千の兵を長篠城の押さえに残し、
織田・徳川連合軍3万8千の布陣するこの設楽原に
進撃した。戦いは5月21日(陽暦7月9日)連吾川(左)
をはさみ、織田・徳川の鉄砲隊と武田の騎馬隊が壮絶
な戦闘をくり返した。3千挺の鉄砲を馬防柵の前に
武田軍はほとんどの勇将・智将を失う惨敗を喫し、勝頼
はわずかな兵に守られて甲州に落ちのびていった。
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