武田信玄


                    甲斐守護武田信虎の子。
                    1541年、父を駿河へ追放して当主となる。
                    その後信濃へ侵攻、諏訪氏・小笠原氏ら
                    を倒して信濃を支配下に。
                    1553年から1564年までの間に越後の上杉謙信
                    と数度にわたって川中島でたたかった。

                    


                    歴史は繰り返すのか。
                    父信虎が次男の武田信繁を溺愛したのがお家騒動
                    の始まり、信玄も四男勝頼を溺愛して長男を廃嫡、
                    それが武田家が滅ぶ原因につながる。
                    戦国の世では親の心理として、長男ではなくても、
                    優秀と感じる子供に家を継がせたいとの意識が強く
                    働くのだろうか。


                    神田昌典著「あなたの悩みが世界を救う!」に、
                    「不思議なことだけど、長期的な会社の成長は戦略が
                    正しいとか商品がよいとかだけで決まるのではなく、
                    トップがどれだけ成熟した関係を両親と持っているか
                    大きく影響される。」とある。
                    あなたの親子関係はどうですか。

                    
                                瀬戸市
                    中央の武田信玄甲斐守と刻まれていて、その右には、
                    信玄の没年である天正元年卒(1573)と見える。
                    この地で死亡したのだろうか。


                          武田信玄・勝頼墓所
                    
                                高野山

                    

                              武田成信の墓
                    
                               藤川宿・称名寺

                    武田信玄の弟、河窪 信実(かわくぼ のぶざね)の子
                    孫は、徳川の家臣となる。武田成信はその8世という。
                    藤堂家の家臣、武田成信の墓。

                               山本勘助

                    
                           豊川市牛久保町(牛久保城)

                         1529年築城。当時二重の堀を持ち町割を定め
                              城下町が作らた。山本勘助は牛久保を治めて
                              いた牧野家の家臣大林家に養子に入った。


                    武田信玄の軍師として活躍。
                    身の丈短く、色黒い醜男で左目は失明、右足も不自
                    由で手の指も満足でなかったという。
                    川中島の戦いで有名な勘助の「きつつき戦法」は
                    上杉に裏をかかれた形となって危機に陥る。
                    責任を感じた勘助は敵陣に飛び込み、討死する。
                     69歳。

                    山本勘助生誕地
                    @静岡県富士宮市山本
                    A愛知県豊橋市賀茂
                    

                    山本勘助の墓
                    @愛知県豊川市牛久保町寺町・長谷寺
                    

                    

                                山本勘助
                    戦国の昔、武田信玄の名軍師として有名な山本勘助
                    は、明応9年(1500)8月15日八名郡賀茂村(豊橋市
                    賀茂町)の山本藤七郎の三男として生まれ、幼名を
                    源助と名なっていました。
                    勘助は15歳の正月に牛久保に牧野家臣大林勘左衛
                    門貞次の養子となり、大林勘助貞幸と名を改め、26歳
                    の時、武者修行のため諸国を歴遊し武名を高めて、35
                    歳の冬に大林家に帰ってきたところ、勘左衛門に実子
                    が生まれていたため、父子の縁を切り、養家を離れて
                    関東の地を歴遊し、45歳の時に甲斐国(山梨県)の武
                    田信玄に仕え、知謀をもって忠誠をつくし永禄4年(1561)
                    川中島の合戦で討死しました。
                    その後、牛久保在住以来、勘助と親交のあった長谷寺
                    の念宗和尚がしの死を悼み、彼の遺髪を埋めて建立した
                    のがこの五輪塔だと伝えられています。
                    また、勘助の守り本尊であったとされる麻利支天像(豊川
                    市指定)が、今なお長谷寺に安置されています。
                                        長谷寺での掲示板より

                    A長野県・千曲川の土手沿い

                    平成17年9月5日、NHKは平成19年に放送する大
                    河ドラマとして、井上靖さん原作の「風林火山」を制
                    作すると発表した。

                    主人公は武田信玄に仕え、名参謀といわれた山本
                    勘助。
                    平成19年は井上靖さんの生誕百年に当たる。

                              

                    原作は、勘助が川中島の戦いで死ぬまでを書いてい
                    る。

                              

                                勘介井戸
                    
                              静岡市駿河区

                               勘介井戸
                    この井戸は、戦国時代に山本勘介が掘ったといわれ
                    今から約400年前の久能山城を語る貴重な文化財
                    である。

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