高須城
岐阜県海津市海津町高須
歴史民族資料館
高須城と城下町
高須城は、大永2年(1522)大橋源左衛門重一が
築城したと伝えられる。
その後、城主は幾人も変わったが、関ヶ原の戦い
(1600)以後の城主は、次の通りである。
徳永氏 1600〜1628 5万3千余石
小笠原氏 1640〜1691 2万2千余石
松平氏 1700〜1691 3万石
松平氏は、尾張藩二代藩主徳川光友の子松平義行を
祖として明治まで続いた。尾張藩の支藩としてこの辺りの
1万5千石のほか信濃の国伊奈郡に1万5千石を領知していた。
松平氏の居館は、この北にある西大江川のほとりにあった。
そしてすべての道は、内部を見通せないようにかぎの手になって
いた。城下町は城の南に広がり、現在の海津高校の辺りや
高須小学校の辺りに諸役所や武家屋敷が並んでいた。
町屋は南西の一段と高い自然堤防の上に軒を連ねていた。
高須藩
慶長5年の関ヶ原合戦後は、徳永法印寿昌が、
戦功により2万石を加増されて高須城主となり、
5万石余を領した。徳永氏は寿昌のこ昌重のとき、
領地没収となり、収公された。寛永17年から、小笠原
土佐守貞信が転封により入部、城や城下を整えさ
せたが、元禄4年、越前勝山へ移封され再び収公
された。尾張徳川氏の2代光友は、尾張家の断絶
を案じ、幕府に頼み天和元年、2男義行に信濃国
伊奈郡内等で3万石を新知させて支藩を設立した。
義行は元禄13年、平地への替地を願い、石津、海西
の2郡のうちで、1万5千石の交換を許され、高須を
居城とした。信濃国伊奈郡に残った領地は続けて
治めた。以後松平氏は、明治維新まで13代続いた。
二本松
二本松は、高須藩校日新堂が文久年間
(1800年代)に当地に増築・移築された頃
植えられたものである。
日新堂から高須小学校に到る本校の歩み
を見守り続けて来た名木である。
主水橋
戻る