出生地

 戦国時代の有名武将は、その前半生が謎に包まれている場合が多い。
光秀についても例外ではなく、その出自については現在もなお不明な
点だらけである。
岐阜県内に出生地とされる所が、@可児市瀬田、A恵那郡明智町、
B山形郡美山町C大垣市上石津町多良などがある。
各々について説明していこう。

@可児市瀬田
岐阜県可児市は、明智庄と呼ばれ、美濃国守護土岐氏の氏族明智氏
が領有していた。光秀は明智光綱の嫡男として生まれたと伝えられる。


     
                  
明智城址碑

      
        
七ッ塚              明智城からの眺め

      
        
桔梗坂

          

 
なお、花フェスタ2005ぎふが、2005年3月1日〜6月12日まで
花フェスタ記念公園(岐阜県可児市瀬田)で開催される。


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A恵那郡明智町
この明智町は、大正時代の建物、文化、風俗などを残す「日本大正村」
として知られるところである。
伝説によると光秀の母は姑に嫌われ光秀を連れて若狭国小浜に去っ
たという。


     
                 
明智城跡

     
                  
石垣跡

            
          
         光秀手植の楓

     
                
柿本人麻呂神社
       光秀は柿本人麻呂に関心を持っており、八王子神社境内に
       この神社を建てている。

 ここで少し柿本人麻呂について述べてみたいと思う。
柿本人麻呂
 持統・文武両天皇に仕えた宮廷歌人。序詞・枕詞などを駆使、格調高い作風で、
万葉歌人中に第一人者。
伝記は明らかでないが、和銅の始め頃、50歳ぐらいで、任地石見国で死んだと
いう。後世、聖歌とあがめられた。

 井沢元彦氏の逆説の日本史3に、以下の記載がある。
人麻呂は高官だったが『犯罪者』とされたため、流罪にされ非業の死を遂げた。
それゆえに歌聖になった。
人麻呂も、まぎれもなく天才であり、優れた歌をいくつも残したことは事実だ。
しかし、私が主張していることは、日本において「歌聖」になるためには、それだけ
ではダメで、必ず「非業の死」つまり「怨霊化するかもしれない不幸な死に様」を
遂げなければならないということだ。そういう死に方をした人間が怨霊になること
恐れるあまりに、それを「聖」として「祀り上げる」ということなのである。




 
井沢氏の説をふまえると、・・・・。
 人麻呂に関心を持っていたからこそ、光秀の人生は悲劇的な方向へ向って
いったのだろうか。あるいは、意識的に選択していったのだろうか。

 また、人麻呂には、様々な伝説がある。
(難しいので、簡単なものを挙げる)
@人麻呂は死に再生する。
A人麻呂が赤人に化身し、都に戻って栄進する。
B人麻呂の長寿伝説。
 人麻呂に関心を持っていた光秀は、人麻呂伝説を踏まえ、再生の手続きを
通して、天海に化身したのだろうか。この中に人生再生の秘密が隠されている
のだろうか。

人麻呂には、
天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕隠る見ゆ (巻7-1072)
という歌がある。
光秀は、人麻呂のこの歌より、天海としたのだろうか。


    


     
           
竜護寺に建てられた光秀の墓。
         
龍護寺は光秀の出生地としても知られている。


     
                 
光秀公産湯の井戸
        

B山形郡美山町

伝承では土岐四郎基頼と、地元の豪族中洞源左衛門の娘との間に生
まれたのが光秀で、彼は後に可児の明智氏に養子として入ったそうだ。


     
          
  
光秀産湯の井戸(白山神社)

     
                
光秀の墓(白山神社)

C大垣市上石津町多良
明智氏一族宮城家相伝系図書による。
要約
明智光秀は、1528年8月17日石津郡多羅(多良)に生、多羅は
進士家の居城、母は明智家当主「明智光綱」の妹で、明智家当主
光綱に子供が無かったので、養子として明智城に入った。幼かった
ので、光綱の弟、叔父の兵庫頭光安入道宗寂後見とした。
1556年9月明智城落城後、しばらく浪人し、後足利義昭公に仕え、
その後織田信長に仕えた。
天正10(1582)年6月13日夜、小栗栖に於て死亡、年55歳。

大垣市上石津郷土資料館にて紹介してある。

           大垣市上石津郷土資料館

     
              
大垣市上石津町

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