杉谷善住坊


善住坊かくれ岩


善住坊かくれ岩
元亀元年(1570)、織田信長が京から岐阜への岐路
に千種越を利用しており、六角氏の命を受けた杉谷
善住坊がこの岩に隠れて信長を狙撃したと伝える。
千種越の古道は対岸にあたる。



杉谷遺跡

三重郡菰野町大字杉谷

五輪塔や蔵骨器の形状から鎌倉時代から
南北朝、室町時代にけて営まれた墳墓である
ことがわかる。周辺には観音寺跡や杉谷城跡が
あり、墳墓と関係する遺跡と考えられている。



熊野神社


熊野神社の西方に残る南谷中世墓地、
観音寺跡、杉谷城跡(鎌倉初期1200〜
室町末1550年頃)なども当写真との密接な関係
があり、その関係を裏付けするものである。

杉谷城は、1570年に千種越えの織田信長
を狙撃した杉谷善住坊の居城と伝えられる。




身代り不動明王

名古屋市中区大須・万松寺



身代り不動明王
御立ち姿の石像。
一切の悪魔を降伏させる真言明王の御威勢を示す
妙相を表情に持っている。元亀元年(1570)織田信長
公が越前の朝倉城を攻めた帰り道、琵琶湖の北方で、
杉谷善住坊という鉄砲射ちにねらいうちされたが、
二発の命中弾は、信長公の懐の干餅にあたり、かす
り傷だけで、落命をまぬがれた。これも日ごろ信心の深
かった、不動明王の加護によるものといわれている。
この餅は当時の万松寺和尚からもらい受けたもので、
のちにこの話を聞いた加藤清正が「身代り不動」
と命名した。当時門前の茶屋で売っていた餅も
「身代り餅」と称され、災難、厄除けに多くの人に愛
されたという。現在、毎月28日にこの由緒を伝え
るため、当寺境内で餅をつき、参詣の方々に
厄除け、交通安全祈願のうえお配りしている。

万松寺
名古屋市中区大須
天文16年(1547)三河の松平竹千代(のちの徳川家康公)
が6歳の時から約2年、万松寺で暮らしたことがある。



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