崇福寺
岐阜市長良福光2403-1
由緒
当寺は臨済宗の妙心寺派[妙心寺派以前は弘済寺
又は大寿山崇福寺と号し、開山は一山一寧(弘済)
であったという説あり。]の寺で、寺伝によれば文明
元年(1469年)2月、美濃守土岐成頼とその家臣斉
藤長弘(利安)が建立(一説によれば1493年、開基
については諸説あり。)し、神護山崇福弘済禅寺と
号す。開山は独秀乾才禅師であり、後には織田家
菩提所、有栖川宮家祈願所となった。
血天井
崇福寺・本堂の“血天井”は信長公の孫三法師秀信
が慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の前夜(約1ヵ月程
前)西軍に属し、東軍の攻撃を受け岐阜城が落城した
際、戦死した将兵(38名)の霊を弔らうため城の床板を
天井に張ったもので、今でも血痕が付着している。
なお、三法師秀信は数名の家来に伴われ、高野山
に落ちのびたが、この地で若死にをしている。
側室小倉なべ消息(折り紙)
天正10年(1582年)6月、信長・信忠親子が本能寺の
変において明智光秀に討たれ、側室小倉氏が密か
信長公の首級を当寺に葬ったとのことである。
織田信長公父子廟
信長、信忠父子の廟所は本堂裏にあり、墓の高さ
は139cm、幅39cm、厚さ30cm。位牌形の石碑で縦
に両分して、父子の法名を左右に並べて刻んである。
総見院殿贈一品大相圀泰岩大居士 覚霊
大雲院殿三品羽林高岩大禅定門 神儀
位牌堂
墓地の右側に位牌堂があり、土壇の上に4m四方の
格子塀に囲まれて、宝形胴葺屋根木造彩色の小堂
に父子の位牌が安置してある。
この位牌堂には、京都・大徳寺で執り行われた信長の
葬儀の野位牌とされるものが納められている。
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