それぞれの関ヶ原
@細川ガラシャ
豊臣秀吉の死後、秀吉側近の石田三成と徳川家康の対立が起こる。
その頃、細川家では三男の忠利を家康のもとに送っていました。つまり人質であります。その
家康が三成を挑発して兵を挙げました。いわば関ヶ原の戦いの前哨戦であります。その家康に
従って征く忠興は、三成がガラシャを人質に取ることを恐れて、「大阪城に入るな」と言い残しま
した。
越中井
大阪市中央区玉造
1600年、忠興出陣中、石田三成が、大阪城中に
人質にしようとしたが、ガラシャ夫人は聞き入れず、三成
に取り囲まれ、ぜひもなく家来に首を打たせ屋敷に火を
放ちいさぎよく火中に果てる。
この越中井はその屋敷の台所にあったと古くから伝え
られている。
大阪城からは数百mの所にある。
その言葉通り、三成の兵五百が細川屋敷を取り囲み、ガラシャの引き渡しを要求してきたので
す。
三成方の兵五百に囲まれた時は、さすがに慄然としたが、このことがあることを覚悟していた
ガラシャは白無垢に着替え、奥の一室にこもったのです。
ガラシャの最期は切支丹殉教の栄光とも思えるが、華のようにパッと咲き散った父光秀の最
期を知った以後、ガラシャ自らもその゛時゛を求め続けていたのでしょうか。
散りぬべき時知りてこそ世の中の
花も花なれ人も人なれ
越中井
大阪市中央区玉造
という辞世の歌がそのことをもの語っているように思えるのです。
A細川幽斎
古今伝授
慶長5年7月18日、西軍は、細川幽斎の守る田辺城
を攻略するため、丹波・丹後の西軍諸将を向かわせ
た。西軍15000余の大軍は、7月20日田辺城を囲んだ。
幽斎はわずかの守備兵で篭城を決意した。幽斎の
決死の決意を知った朝廷は驚いた。なぜなら、幽斎
は歌学者として著名な武将であり、古今伝授を受け
ていたからである。古今伝授とは「古今和歌集」の秘訣
のことで、元亀3年(1572)に願い出て三条西実枝から
この古今伝授を受けて二条歌学の正統を伝えていた
のである。幽斎にもしものことがあれば、この古今伝授
が絶えてしまうのである。この事態を憂慮した八条宮
智仁親王が、7月27日にさらに、8月21日、和睦をし
開城するよう勧告した。しかし、幽斎は、この勧告を
辞退し開城しなかった。9月3日、後陽成天皇は古今
集秘事の伝統の絶えることを惜しみ、開城の叡慮を
伝えるべく、勅使を田辺に下らせた。西軍は勅命を
受け兵を引いたので、勅使は幽斎を説得し、9月13日
幽斎は城を明け渡し、高野山へ登った。決戦は2日後
の9月15日であった。結果として幽斎は、60日にも
わたって西軍15000余の兵を釘付けにし関ヶ原に
参陣させなかった。戦わずして大功をあげたといえよう。
幽斎67歳であった。(細川幽斎・忠興のすべて参照)
田辺城
舞鶴市字南田辺15-22
B京極高次
大津城
大津市
大津城の戦い
慶長5年(1600)9月7日から9月15日まで、大津
城を巡っての戦い。関ヶ原の戦いの前哨戦。
西軍の京極高次は、突如東軍に寝返り、大津城に籠城。
これに対して、毛利元康を大将とし、立花宗茂、小早川
秀包、筑紫広門ら15000人の軍勢をもって、9月7日より
大津城に攻撃を開始した。京極高次らは奮戦するも、
9月15日に降伏し、大津城を開城する。高次は助け
られ、高野山に上がって出家することになる。
大津城の戦いで西軍は勝利するが、15000の兵力を
関ヶ原に向けることが出来なかった。特に、立花宗茂
が関ヶ原に参戦出来なかったことが、西軍にとっては
不運だったと言われる。宗茂は、戦後に改易。関ヶ原戦後、
徳川家康は、この功により京極高次に若狭一国を与えた。
三人の行動をどう思われますか。1本の糸(意図)で
結ばれているとしか思えないのですが。
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