崇福寺
岐阜市長良福光2403-1
織田信長父子廟
崇福寺岐阜市長良福光
由緒
当寺は臨済宗の妙心寺派[妙心寺派以前は弘済寺
又は大寿山崇福寺と号し、開山は一山一寧(弘済)
であったという説あり。]の寺で、寺伝によれば文明
元年(1469年)2月、美濃守土岐成頼とその家臣斉藤
長弘(利安)が建立(一説によれば1493年、開基につ
いては諸説あり。)し、神護山崇福弘済禅寺と号す。
開山は独秀乾才禅師であり、後には織田家菩提所、
有栖川宮家祈願所となった。
斉藤長弘(利安)一族の墓
当山開基斉藤長弘(利安)一族の宝筐印塔で、これ
らの塔は、文明・永正年間に建てられたものである。
この地は、元々長弘(利安)の長良館であったが、
守護土岐成頼と家臣長弘(利安)が同じ夜、夢の中
で「この地に寺を建てるように」というお告げを聞き、
長弘(利安)が寄進したと伝えられている。
尚、利安と長弘は、別人であるという説もある。
稲葉一鉄(良道)寄贈の梵鐘
一鉄は、西美濃の豪族、稲葉通貞の末子で、当山
第2世仁岫(第3世快川という説もあり)のもとで修行
をしていた。
しかし、大永5年(1575)牧田の戦いで父子6人が討
死したので、11歳で一鉄は、還俗し、家を継ぎ、土岐
頼芸に仕えた。
土岐氏滅亡後、斎藤氏に仕え、曽根城(大垣市)を
居城とし、西美濃三人衆(稲葉一鉄・氏家卜全・安藤
守就)の一人として活躍。その後、信長・秀吉などに
も仕え、清水城(揖斐川町)で、74歳で死去。
この梵鐘は後年、一鉄が寄贈したものである。
(太平洋戦争で供出、戦後再製)
崇福寺には徳川家光書状、春日局ゆかりの品もある。
さらに、崇福寺の紹介のHPには、「春日局と当山七
世慶甫和尚は、姻威関係にあたり」とある。
土岐・斉藤利安・稲葉・春日局・徳川家光とあるとどう
しても明智光秀を連想せざるを得ない。
さらに、春日局のゆかりのある白樫城に斉藤一族の
墓がある。
春日局出生地碑
岐阜県揖斐郡揖斐川町白樫字大谷(春日局公園)
白樫城主一族の墓
左から三代利三公、初代利安公、二代利賢公の墓
岐阜県揖斐郡揖斐川町
その墓に利安の名があり、利三の名もある。
斉藤利三とは、
曽根城
岐阜県大垣市
この地は天正のはじめ、春日局の父、斉藤利三が、
城主稲葉一鉄の重臣として住んだところである。
春日局は稲葉一鉄の姪、お安と斉藤利三との間に生
まれた子であり、のちに一鉄の子、重通の養女となっ
て稲葉正成に嫁した。
斉藤利三の母は光秀の妹だったともいわれ、光秀の
家老をつとめる。本能寺の変にも従軍している。
この崇福寺に織田信長公父子廟と位牌堂がある。
斉藤長弘(利安)一族の墓の説明にあるように、利
安と長弘は、別人であるかもしれないし、他説もある
かもしれませんが、・・・・
改めて、織田信長と明智光秀はどのような関係だっ
たのかと二人に想いをはせるのでありました。
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