信玄塚
大塚
新城市竹広字信玄原
天正3年(1575)、織田・徳川連合軍と武田軍の間
で戦われた設楽原の戦いは、連合軍側の大勝に
終わった。この戦いで両軍あわせて1万6千もの
戦死者があったと言われている。戦場のかたづけ
に従事した竹広の村人は、この地にねんごろに葬り、
二つの塚を築いて弔った。これが「信玄塚」である。
当時すでに亡かった信玄の名を冠して、信玄塚と呼
ばれたのは、信玄の偉名の大きさを物語っている。
小塚
首洗池
新城市竹広字高原
長篠の戦いの時、この地で戦死者の首を洗ったと
いう。このような地名が残ったのは、戦いがいかに
壮絶であったかを想像すせる。信玄塚の近くにある。
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