柴田勝家



福井市


北の庄城址にて

明徳寺
明徳寺
名古屋市名東区陸前町



柴田勝家公出生地
柴田勝家公出生地
名古屋市名東区陸前町・明徳寺
柴田勝家
柴田勝家は1630年、この地で生まれたといわれる。
幼名を権六といい、織田信長の重臣で勇猛な武将。
1556年信長の弟・信行を擁立せんとして失敗するも、

柴田勝家陣地跡もある。

滋賀県東浅井町虎姫町

許される。信長の妹・お市の方をめとる。
本能寺の変後、豊臣秀吉と対立し、賎ヶ岳の
戦いで敗れる。秀吉は、丹羽秀長と柴田勝家
から一字づつもらって羽柴と称したのだが。

柴田勝家像

滋賀県伊香郡木之本町

勝家の辞世の句
夏の夜の 夢路はかなき あとの各を
 雲井にあげよ 山ほととぎす

お市の方の辞世の句
さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の
 わかれを誘う ほととぎすかな


福井市・北の庄城址

柴田勝家・お市の方の墓

福井市(西光寺)

柴田勝家とお市の方の墓
慶長年間山中山代の守長俊の創建によるもので、
勝家・お市の方・勝景(勝家の甥で丸岡城城主)
及び勝家の一子孫次郎の墓が合祀されている。

賤ヶ岳の合戦と七本槍
1582年本能寺に倒れた織田信長の家督相続のため、
1583年、賤ヶ岳付近で羽柴秀吉と柴田勝家の間で戦
が行われた。4月21日決戦が行われ、秀吉の大勝に
終わり、勝家は北ノ庄城(福井市)に敗走するが、
4月24日、自刃する。この戦いにおける、福島正則・
加藤清正・加藤嘉明・ 平野長泰・脇坂安治・片桐
且元・糟屋武則の奮戦ぶりを賤ヶ岳七本槍という。

なお、勝家は信長の妹・お市の方をめとっている。   
3人の娘がおり(父は浅井長政)、勝家滅亡の際、脱出
させる。それぞれ成長し、豊臣秀吉の側室・淀君、
京極高次の室・常高院、徳川秀忠の室・崇源院となる。
淀君はどんな思いで秀吉の側室になったのだろうか。




北の庄城址資料館

福井市

柴田勝家公資料館

福井市

本宿陣屋跡と代官屋敷(現冨田病院)

岡崎市本宿町

元禄11年(1698)旗本柴田出雲守勝門
(柴田勝家子孫)が知行地支配のため、本宿村
に陣屋を設けた。以来明治に至るまで存続した。
陣屋代官職は冨田家が世襲し、現在の居宅は
文政10年(1827)の建築である。


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