関ケ原の戦い
関ヶ原の戦いでは最初西軍につき、小早川秀秋の時に一緒に
寝返った武将は、脇坂安治、朽木元綱、赤座吉家、小川祐忠
である。しかし、赤座、小川家は改易された。
一人ひとり簡単に見てみたいと思います。
陣場野の床几場
(関ケ原、陣場野公園内)
脇坂安治
近江浅井郡生まれ。(1554〜1626)初め明智光秀の家来。
次いで豊臣秀吉に仕える。賎ヶ岳の戦い(1583)に軍功をあげ、
七本槍の一人に数えられる。
関ケ原の戦いでは西軍に属したが、決戦の最中に寝返る。
所領は安堵。
脇坂安治生誕地
滋賀県東浅井郡湖北丁野
朽木元綱
1529〜1632。初め足利義昭に仕え、この頃は浅井氏に属する。
信長の金ヶ崎の時は、浅井氏に背き、信長を京都に逃がしてい
る。(1570年朽木越)その後、豊臣秀吉に仕える。
関ケ原の戦いでは西軍に属したが、決戦の最中に寝返る。
元綱3男、稙綱(1605〜1660)は、1618年将軍家光に召しださ
れ仕える。
稙昌(1643〜1714)、稙綱の長男か。1669年、丹波福知山3.2万
石に転封される。
朽木稙昌は、光秀の御霊を常照寺に勧招し供養をあげた。その後
四代稙治の時代に、町民から光秀を称える連署が届けられる。
「福知山が立派な城下町になったのは、光秀公のお陰だ。その御霊
をお祀りし感謝のお祭りをさせてもらいたい。」これを受けて稙治は、
祭りを行うことを許可する。
城下の宇気母智神を祀った宮に、光秀の御霊を合祀して「御霊神社」
と唱え、現在に至る。
*光秀も足利義昭に仕える。
御霊神社
所在地 京都府福知山市西中ノ町
場所的にも福知山駅から徒歩約10分のところにあり、光秀の功績を
称えていることが実感できる。
明智光秀家中軍法(明智軍規)はこの御霊神社にある。
なお、明智軍規は、奇しくも光秀が信長をたおすちょうど1年前の
天正9年6月2日に定められている。
屋根には桔梗紋
*福知山観光協会イメージキャラクターは、光秀くんとひろこさんである。
忠臣蔵と稙昌
1701年3月浅野内匠守が江戸城で吉良上野之介に斬りつけたときも、
翌年12月の赤穂浪士の討ち入りのときも、福知山にいたと思われる。
直接事件とはかかわってはいないが、朽木藩の中屋敷が吉良邸に割合
近く、赤穂浪士の引き上げルートも近くを通っている。
また、朽木氏の菩提寺は泉岳寺である。泉岳寺は、朽木稙綱以来、
将軍家光の命により朽木氏が面倒を見た事から、朽木家は筆頭檀家と
なっている。
泉岳寺
東京都港区高輪2
後に赤穂浅野家の菩提寺となり、赤穂浪士吉良邸討ち入りのあと引き上げ
場所となる。
福知三万ニ千石福知山藩主朽木十三代
(福知山市郷土資料館)参考
朽木家は、関ケ原の戦い、御霊神社、泉岳寺(忠臣蔵)と関係があることは、
興味深い。最近は、朽木家がこのあたりの秘密をにぎっているのではないかと
感じています。
後で述べる忠臣蔵も見てください。
小川祐忠
?〜1601。土佐守。伊予国府領主。近江出身ではじめ織田信長に
仕え、1582年、明智光秀の反乱に加わり山崎の合戦に出陣、
光秀敗滅後は柴田勝家に属して勝家の養子勝豊の家老を務めた。
関ケ原の戦いでは、東軍に寝返って平塚為広を討つ功を挙げるが、
戦後その行動は認められず、所領は没収。
除封の理由は、裏切りの多い祐忠の経歴を家康を嫌った事と
子の滋祐が石田三成と親しかった事などが言われている。
*光秀と関係はあるが、事前連絡なしの成り行き寝返りだったと
読んだことがあります。だから、没収なのでしょうか。
二條陣屋(重要文化財小川家住宅)
京都市中京区
豊臣秀吉に仕えた伊予今治(現在の愛媛県)7万石の
城主となった小川土佐守祐忠は、関ヶ原の合戦に
敗れて出家し、その長男千橘が、萬屋平右衛門と
名乗って、この地で米穀商、両替商及び木楽屋を業とした。
この建物は、その住宅として寛文10年(1670)頃に創建
されたものである。当家は、二条城や京都所司代に仕候
する中小大名の陣屋として、また京都町奉行所の公事宿
として利用されたので、隠し階段や武者隠しなど、大名の
身辺警護のための特殊な構造、設備が施され、更に類焼
防止の工夫も多い。建築様式は、数奇屋式住宅で、
極めて繊細優美であり、建築学的価値も非常に高い
とされている。昭和19年(1944)に、数奇屋式住宅、
陣屋式建築、防火建築の三点から、当時の国宝
保存法に基づく国宝に指定され、昭和25年、
文化財保護法により重要文化財に指定されている。
赤座吉家
?〜1606。従五位下備後守。越前今庄領主。吉家は織田信長・
豊臣秀吉に仕えて本領を安堵され、1590年、小田原征伐に従軍して
武蔵岩槻城・忍城攻めに功があり、加増されて2万石を領有した。
1598年、小早川秀秋が秀吉の不興を買って一時的に越前に移封され
た時その与力を務めていた。
関ヶ原の役では、秀秋に続いて東軍に寝返ったが、家康はその功
を認めず、戦後吉家は所領を没収された。翌年、加賀の前田利長
に召し出されて7000石を与えられ、松任城の守将となる。
*光秀とは関係がなさそうです。
光秀に縁ある者脇坂安治、朽木元綱が、東軍に寝返ったように
みえてならないのですが。あなたは、どう思いますか。
そして、小早川、脇坂、朽木の寝返り工作を行ったのが、藤堂高虎だと言われている。
藤堂高虎は、1573〜1576頃織田信澄(信長の甥)に仕えている。
光秀の娘は、信長の命により、1574年1月、織田信澄に嫁いでいる。
本能寺の変のあと、信澄の子(光秀の孫)は藤堂高虎にひきとられている。
ここにも、明智光秀の影響が見え隠れするのだが。
なお、幕末、高虎の後裔は、鳥羽・伏見戦いで、幕府を裏切り、新政府についている。
藤堂高虎公(三重県津市お城公園内)
津城跡 津城跡
そして、もう一人重要な人物を説明したいと思います。
それは、筒井順慶です。
筒井順慶
1549年3月31日〜1584年8月11日
順慶のもとには光秀の子が養子としていっている。
SF作家の筒井康隆はこの子孫。
「洞ヶ峠を決め込む」、日和見の代名詞として知られる順慶である。
「洞ヶ峠を決め込む」
明智光秀は、山崎の合戦で恩顧をかけていた筒井順慶に協力を求めるが、
順慶はこれを断り、光秀は合戦に敗れる。
このとき、順慶は山城、摂津、河内の国を見おろす洞ヶ峠に駐屯して戦局
を傍観、豊臣秀吉勝利と見るや直ちに峠を下り、秀吉に見方したことから、
日和見の代名詞「洞ヶ峠を決め込む」の語を生んだ。
しかし、実際この地にいたのは、筒井順慶ではなく、順慶の参陣を待つ
明智光秀であった。
光秀の死後、羽柴秀吉の家臣となり、大和国の所領は安堵された。
山崎の合戦後、2年後、1584年8月11日、36歳という若さでなくなる。
関ケ原の戦いにて東軍に寝返った小早川秀秋も戦いの2年後1602年死亡
している。
天の仕組みはこのように出来ているのだろうか。
順慶の死後定次が跡目を継ぐ。
関ケ原の戦いでは東軍についたが、その後、豊臣秀頼に接近。
筒井城
三重県伊賀市上野丸之内
徳川家康に忌避され、ついに改易、絶家へ。
徳川家の中に明智のゆかりの者を見たため、豊臣秀頼に通じようとしたのだろうか。
そんなことが想像出来そうだが。
それとも光秀を見捨てた報いが筒井家に来たのでしょうか。
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