盛林寺



宮津市字喜多

盛林寺
裏山の墓地の明智光秀の宝篋印塔は、細川忠興の
妻玉(光秀の娘)によって建てられたことを伝えてい
る。これも細川氏との深い関係を示すものである。




光秀の首塚


光秀の首塚
悲劇の武将明智光秀の供養塔である。基礎の両側
に、天正10年6月13日、條鉄光秀居士と刻んでいる。
光秀の女・玉が細川忠興に嫁いだのは天正6年
(1578)8月、細川氏の山城勝竜寺城時代である。
その細川氏の宮津入城が2年後の8年8月、そして
2年後の10年の6月2日に父は織田信長を本能寺に
攻めた。父からは細川氏に同心を求める書状が届い
たが、忠興は応ぜず、玉を丹後山奥の味土野に幽
閉し、自らはもとどりを払って謹慎の意を表した。玉
にとって苦悩の日であった。光秀は信長を倒して
十余日、6月13日、秀吉の軍と山崎に戦って敗れ、
次いで居城坂本に退く途中、小栗栖において土民
に襲われて死んだ。同月17日、秀吉は光秀の首を
本能寺に梟し、次いで屍を粟田口に磔にしたという。
これにはさまざまな伝説がつきまとって、光秀の首が
女・玉のいる宮津に届けられて葬ったという当地首塚
の話のほかにも、粟田口下(京都市東山区梅宮町
)亀岡市宮崎町谷姓寺等にも首塚が伝えられてい
る。光秀の死の意義が大きかったことのしるしでも
あるだろう。盛林寺には光秀の位牌もまつられている。




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