佐治信方
大野城
常滑市金山字桜谷
このあたりは鎌倉時代、三河から伊勢に抜ける
道筋の重要な中継点として栄えた町である。
城は、南側の低いところが、空堀で、佐治神社のある
一段と高いところに物見櫓があったようである。なお、
この建物は当時の建物を復元したものではありません。
大野佐治氏の歴史
ここは、昔、佐治氏の城であったところである。
古くは、宮山城とか大野城とか呼ばれ、昭和43年11月
1日、この一帯は「大野城跡」として常滑市文化財に
指定された。城主佐治一族については、いろいろな話が
伝えられているが、室町時代の終わりごろの戦国時代
に、4代の城主が続いて勢力を張っていたと思われる。
初代 佐治駿河守宗貞 享禄3年(1530)没
江州(滋賀県)より移住して宮山城主となる。
二代 佐治上野守為貞 弘治2年(1556)没
城内に斉年寺を建て、天文元年(1532)に
雪舟の「慧可断臂図」を寄進した。
天文13年(1544)、連歌師谷宗牧が来城した。
斉年寺
常滑市大野町
大野城主
佐治駿河守菩提所
国宝・雪舟筆達磨大師恵可断臂図
於犬の方
三代 佐治八郎信方 元亀2年(1571)没
永禄10年(1567)、連歌師里村紹巴が来場した。
織田信長の妹、於犬の方を妻として、信長に協力したが
元亀2年5月9日、伊勢長島の戦いで討死にした。
佐治与九郎一成
四代 佐治与九郎一成 寛永11年(1634)没。
信長の姪、小督を妻としたが離婚。小督は、
後に徳川二代将軍秀忠の正室となる。与九郎
一成は、天正12年(1584)、大野城放棄後、伊勢
(三重県)に居り、後、京で病死した。
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