佐藤秀方


鉈尾山城跡

美濃市

鉈尾山城は、戦国末期の佐藤氏三代の城であり、
美濃市内の代表的な山城跡の一つである。この城
は永禄6年(1563)に佐藤六左衛門清信によって築
かれたと言われている。鉈尾山の由来は、四方釣壁
で構えられ、鉈一丁で壁を切り落とせば何千騎も防ぐ
ことができたことに由来すると言われる。二代城主の
秀方は、織田信長の家臣として戦功を挙げ、続いて
豊臣秀吉にも仕えて一時は飛騨の一部も領収した。
三代城主の才次郎方政も、豊臣氏の家臣として各地
を転戦したが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの時、
西軍に属したため、戦後改易となった。関ヶ原の戦い
で、東軍に属した飛騨高山城主金森長近は、戦後
武儀郡を加封され、新たに上有知に小倉山城を築い
て居所とした。これより、鉈尾山城は廃城となった。
鉈尾山城は、山麓からの高さが約350mを越え、あち
こちに岩肌があらわれる険しい山上に築かれている。
このような天然の地形を最大限活かした上で、多くの
曲輪(防御の要となる平坦なところ)を設けている。
また注意深く観察すると所々に石垣の跡も残されて
いるのが確認されている。佐藤氏も通常の居所は
山麓の長良川沿いに設けており、鉈尾山城は有事の
際の備えとしての性格が強かったものと考えられる。









清泰寺

美濃市

金森長近公と清泰寺
此の寺内社は金森大権現と称し金森法印長近公を
祀ったもの。金森長近公は典型的戦国武将で一介
の武士から遂に飛騨国主となった人物。慶長5年
(1600)関ヶ原の功によって更に鉈尾山城佐藤氏
の領地武儀郡(二万石)を加封され小倉山城を築き
城下町上有知(こうずち)をつくりました。その時、
以安寺(佐藤氏菩提寺)を廃し此地に清泰寺を創建
して菩提寺としました。慶長13年長近公逝去、その霊
を此所に祀ったもので江戸時代には南面して規模の
大きい社でした。小倉山城金森氏二代長光の幼死に
より断絶。その墓が本堂西側墓地にあり、鉈尾山城主
佐藤氏二代の墓も以安全寺より移されて同所にある。



金森家の菩提寺

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