斉藤新五
加治田城
富加町加治田
加治田・堂洞合戦
美濃攻略に向けて犬山城を攻略した信長は、
永禄8年(1565)8月木曽川を渡り鵜沼城(大沢
基康)、坂祝町にある猿 城(多治見修理)を次々
と攻め落とし、いよいよ堂洞城へと進軍していき
ました。信長方への投降を断った堂洞城の岸氏
に対し、秋も半ばの旧暦8月28日午刻(正午)いよ
いよ攻撃が開始されました。信長は高畑の恵日山
に本陣を置いて関城から岸方へ援軍が来るのを
防ぎ、夕田と蜂屋より丹羽長秀らが、そして信長方
に寝返った加治田城主佐藤紀伊守の軍勢が北面
の加治田から攻め入りました。そして酉刻(午後6
時)、ついに堂洞城は落城しました。城主佐藤紀伊
守は反信長の盟約のため人質として娘の八重緑を
堂洞城の岸方へ養女に出していましたが、加治田
方は、開戦前日に加治田城からよく見える長尾
丸山でこの娘を竹槍で刺殺したとされています。
城を枕に義に殉じた岸勘解由と時勢を洞察して
領地を守った佐藤紀伊守。この対照的な先人の
行動は、それぞれ価値を持って人の生き方に
ついて語りかけます。佐藤紀伊守は堂洞城陥落後
8月29日には信長家臣の斉藤新五とともに、関城主
長井隼人の反撃を衣丸(現在の加治田字絹丸)
で迎え撃ち、翌日には関城も陥落させています。
中濃三城の陥落後、信長の命令により斉藤新五が
佐藤紀伊守の養子となり加治田城主をつぎました。
その後の佐藤紀伊守は永禄10年(1567)に隣の
井深村に隠居して仏門に入り、自らが加治田に
建てた龍福寺のために尽くしました。城主をついだ
斉藤新五は、信長の家臣として各地の戦闘に参加
し、天正10年(1582)本能寺の変で戦死するまで、
その一生を信長の天下統一に捧げました。その後
の加治田城は天正10年の加治田・兼山合戦を斉藤玄
蕃を大将としてしのぎましたが、玄蕃の死後に兼山城
主森長可の領地となり、廃城になったといわれている。
本能寺戦没者合祀墓
京都市
斉藤道三の末子。
本能寺の変で、二条新御所で討死。
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