斎藤道三
岐阜市梶川町9・常在寺
聖徳寺石碑
愛知県一宮市冨田
1553年4月、信長と斎藤道三の会見が行われる。
尾張と美濃を分ける木曽川河畔の富田にある聖徳
寺(正徳寺)が会見場所となった。
この時の折り目正しい信長の儀礼により、道三は、
信長を見る目を変えた。
光円寺山門
名古屋市中川区
山号「臥龍山」の立派な金字額がかかる山門は、
織田信長と斉藤道三が会見した尾北(尾西市)
富田村聖徳寺の山門を移築したものである。
斉藤道三の妻小見の方の甥であった光秀は、道三から古典的な教養の面を受け継ぎ、
そして歴史とか伝統とかいうものに深い関心を持ちながら、一方では天下に対する野望を
抱いています。光秀のその伝統に依拠する姿勢が正統的であるがゆえに、そこに悲劇が
はらまれていたともいえるかもしれません。
斎藤道三の墓
岐阜市道三町
光秀が道三のその一方の分身であるのに対して、いま一つの分身があります。それが
娘婿の信長であります。
西美濃春日局ゆかりの地・養源院跡
岐阜県揖斐郡池田町本郷
信長像 春日局出生地
愛知県西春日井郡清洲町 岐阜県揖斐郡揖斐川町白樫字大谷
岐阜県揖斐郡にある春日局出生地の帰り、道国道417号線を大垣方面に向っている
時、春日局と織田信長ゆかりの地の案内板があり、不思議でなりませんでした。
養源院跡には、春日局の祖父の墓や織田信長の乳母(養徳院)の夫・池田恒利
の墓が同じ場所にありました。光秀と信長の縁を感じざるを得ませんでした。
信長には道三の戦争や政治における奇略と決断が受け継がれていきます。
それが一つの独創性となり、歴史や伝統を打ち破る力ともなっていきます。その
個性は道三以上に強烈であるかもしれません。信長もまた天下を夢に見ているのでありま
す。道三を中心として、信長と光秀の因縁を感じざるを得ません。
岐阜城
岐阜城からの眺めを道三・信長は 信長像(岐阜公園内)
どんな思いで見つめていたのか。
斎藤道三公墳
斎藤道三公菩提所・常在寺
岐阜市梶川町9
土岐塚
笠松町
天文13年(1544)9月、尾張の尾張の織田信秀が
美濃へ攻めこんできた時、斉藤道三の娘婿土岐
頼香が無動寺でこれを向え討ち、追いかえした。
道三は羽島市の大浦辺に陣を張っていたが、土岐
氏を滅ぼそうと考えて、家来に命じ無動寺に陣を
取っていた頼香を殺害させた。頼香は光得寺の
やぶ影に葬られたという。ここがその土地の土岐塚
で、心ある人たちが弔ってきた。道三はいろいろ策
をめぐらせて土岐氏を滅ぼした。
戻る