大谷吉継




一説には、豊臣秀吉の子であるとも。
ハンセン病を患っていたといわれる。

敦賀城

福井県敦賀市

大谷吉継 敦賀城跡碑
大谷吉継(吉隆ともいう)は、豊臣秀吉に仕え、
天正13年(1585)刑部少輔となり、敦賀5万石の
城主となって、街や港の整備発展を計った。
慶長5年(1600)9月豊臣家のため、徳川家康と
関ヶ原に戦ったが敗れて、42才で自刃した。
世の人々は「吉継は衆を愛し、智勇を兼ねた正義
の賢人であった。」と讃えた。(名将言行録)
吉継の拠った敦賀城は、結城、三島の両地にわたり、
重層の天守閣を持っていたと伝えられているが、
元和2年(1616)一国一城の定めで取り壊された。



大谷吉継陣跡
大谷吉継陣跡
岐阜県不破郡関ヶ原町

親友石田三成の懇請を受けた吉継は死に装束でここ
宮上に出陣。松尾山に面し、東山道を見下ろせるこの
辺りは、古来山中城いわれるくらいの要害の地でる。
9月3日に到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の
支援で宇喜多隊ら友軍の陣造りも進め、15日
未明の三成ら主力の着陣を待ったといわれる。




大谷吉継の墓
大谷吉継の墓
岐阜県不破郡関ヶ原町

この墓は敵方の藤堂家が建てたものである。

湯浅五助と大谷吉継の墓


大谷吉継の首塚

米原市

大谷吉継の首塚
関ヶ原の合戦(1600)で、西軍石田方の参謀年奮迅の
働きをした大谷刑部吉継(1559〜1600)の首塚と伝えられている。
西軍の敗北を悟った吉継が敵に首を渡さないよう、湯浅五助の
介錯で自刃し、甥の僧祐玄が首級を錦の袋に入れて、
敦賀へ逃亡の途上に、この地に埋め隠したと言われています。
いまでも地元の人々によって大切に守られ、供養されています。



若宮八幡神社




関の藤川(藤古川)
藤古川




この川は伊吹山麓に源を発し、関所の傍を流れて
いるところから、関の藤川と呼ばれていました。
壬申の乱(672)では、両軍がこの川を挟んで
の開戦。更に関ヶ原合戦では、大谷吉継が上流
右岸に布陣するなど、この辺りは軍事上の要害
の地でした。またこの川は古来より歌枕として
多くの歌人に知られ、数知れないほどの詩歌が
詠まれたことが世に知られています。



安楽寺

大垣市赤坂町

安楽寺
岡山の山腹にある西美濃三十三霊場二十一番
礼所、紫雲山安楽寺は、593年(推古天皇元年)、
聖徳太子の創建、壬申の乱で大海人皇子が勝利
祈願を住職に命じ、戦勝後天武天皇が大友皇子の
冥福を祈り宝物を寄進されたという古刹です。


大谷吉継の陣鐘

大垣市赤坂町・安楽寺

梵鐘
この梵鐘は、関ヶ原合戦の時、西軍石田三成方の
勇将大谷吉継が陣中の兵士の士気を鼓舞したり、
合図用に播州(兵庫県)から持参した陣鐘で、
戦後徳川家康が戦利として安楽寺に
寄進した歴史的にも由縁のあるものです。


大谷吉継の娘は、真田幸村に嫁いでいる。

真田幸村

三光神社



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