大垣宿


大垣宿脇本陣跡


脇本陣は、本陣の補助的役割を果す休泊施設である。
大垣宿では本町大手北側にあって、もと関ヶ原の役で
大垣城を守った七騎の一人松井喜右衛門によって
創立された。その後、戸田家の大垣封に随従した
上田家が勤めるようになった。この脇本陣は、「本町
本陣」と呼ばれ、間口12間半余、奥行き16間半余で
坪数127坪半余もの格式ある建物であった。



問屋場跡


宿場において人馬の継立の業務を行った所が問屋場
である。ここへ問屋役をはじめ、その助役の年寄、事務
担当の帳付、その他、馬指や人馬指が詰めていた。
大垣宿の問屋場は本町にあったが寛文の頃にここ竹島に
移った。問屋役は飯沼家が本陣役と兼帯して勤めていた。

大垣宿本陣跡


本陣は、宿場のほぼ中央に位置し、お大名や宮家・
公家・幕府役人などの貴人が利用した休泊施設である。
大垣宿本陣は、永禄の頃沼波玄古秀実が竹島町を開き、
はじめて本陣を創立したと伝えられる。以後、本陣役は、
宝暦5年(1755)には玉屋岡田藤兵衛が勤め、天保
14年(1843)には、飯沼定九郎が問屋を兼ねて勤めた。

明治天皇行在所跡明治11年(1878)10月22日
明治天皇は、東海・北陸御巡幸の帰途、美濃路
大垣宿の旧本陣飯沼武右衛門邸に泊まられた。


京口御門跡


船町道標


この道標は高さ約2mの円柱状の石製で、文政年間
(1818〜1830)に大垣城下京口御門(西総門)の南、
美濃路沿いに建立された。その標面には「左江戸道」
・「右京みち」の道案内、そして上部には旅人の道中の
安全を願い梵字(種子)が深く刻まれている。先の
大戦で被害を受け、路傍に横たわっていたが修復され、
往時の美濃路を偲ぶ貴重な民族資料となっている。

住吉燈台・船町港跡


船町港は、江戸時代から明治時代にかけて大垣
城下と伊勢を結ぶ運河「水門川」の河港で、物資
の集散と人の往来の中心であった。明治16年
(1883)には、大垣−桑名間に蒸気船が就航した
が、昭和期に入ると鉄道の発達に伴い衰退した。
住吉燈台は、元禄年間(1688〜1704)前後に
港の標識と夜間の目印として建てられたもので
ある。高さは約8m、四角の寄棟造りで、最上部の
四方には油紙障子をはめ込んであり、形全体の
優美さは芸術品としても十二分に価値がある。

奥の細道むすびの地


俳聖松尾芭蕉は、元禄2年(1689)の秋、約5か
月の「奥の細道」の旅をここ大垣で終えた。その
おり、芭蕉は「蛤のふたみに別行秋そ」と詠ん
で、水門川の船町港から桑名へ舟で下った。


静里町塩田常夜燈


この常夜燈は、高さ約4.3mの銅板葺(当初は茅葺であった)
で明治13年(1880)8月に杭瀬川を往来する船の安全
祈願と航路標識、そして伊勢両宮への塩田港の西岸に
建立された。当時は、杭瀬川の水運がこの地方の物資
輸送に重要な役割を果しており、特に赤坂港と桑名港
との間の船の航行が盛んであった。その中継港として
塩田港は、常に20〜30隻の船が停泊し、船頭相手の銭湯、
米屋、雑貨屋等の店が軒を並べて大変賑やかであった。

戻る