お鍋の方
おなべの方の墓
京都市北区紫野大徳寺町(総見院)
岐阜市長良福光
天正10年(1582年)6月2日信長・信忠父子が明
智光秀の謀叛によって京の本能寺で討たれたると、
信長の側室・お鍋の方(小倉氏)は、その遺品を送り
同寺に埋め位牌を安置させた。これが現在の織田
信長父子廟である。この時の書状が現存しており、
比較的有名である。
お鍋の方の書状の内容は
わざとおりかみ(おりがみ)にて甲候。
此そうふく(崇福)寺う(上)へのいは(位牌所)しゅ
にて候まま誰々いらん(違乱)と甲ともおことわり(断)
被申べく候。
そのため一筆申候
かしく
天正捨年六月六日 な屋(なべ)
織田信長が愛した”お鍋の方”屋敷は、滋賀県東近江市
永源寺町あった。
おなべ館遺跡
東近江市永源寺高野町
赤穂四十七番目の義士、寺坂吉ェ門は足軽のため、
切腹を免れ、討ち入り後、赤穂に報告に行き江戸に帰ら
ず、永源寺(滋賀県東近江市永源寺町)で僧侶になり、
ここで没した。
永源寺・山門
東近江市永源寺高野町
墓所
東近江市永源寺高野町
寺坂吉ェ門が、この地を選んだのは、偶然だろうか。
大石内蔵助良雄が、光秀の子孫であるかもしれないと
思うと、寺坂吉ェ門が、この地を選んだのは意図がある
ように思えるのだが。
明智光秀・桔梗物語の忠臣蔵を参照してください。
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