桶狭間古戦場1

有松神社


高根山
桶狭間の合戦の時、今川方の先陣松井
宗信軍200、この地に着陣、織田方佐々、
千秋軍と激戦が行われた。頂上の有松神社



武路釜ヶ谷


武路釜ヶ谷
中島砦より進撃してきた織田軍、この
谷に潜み突撃の機会を窺っていた。

七ッ塚


今川義元を討ち取った織田信長は全軍をこの附近
に集めて今川方武将の首実検を行い、ここに戦死
者を葬るよう村人に命じて引き上げた。村人は山裾
に約50m間隔に七ッの穴を掘り手厚く埋葬したと伝
えられる。里の人は七ッ塚として保存してきたが、
区画整理によりこの地に統合碑を建て追弔した。

桶狭間山からの眺め


瀬名伊予守氏俊陣地跡


鞍流瀬川・浄土橋


由来
合戦により人馬の血と雷雨でこの下の小川が真赤
に染り、馬の鞍鎧などが流れ、その戦いの激しさは
言を脱する。人はこの川を鞍流瀬川と呼ぶ。哀れな
戦死者を寺の阿弥陀如来に託す為、ここに浄土橋を
かけ極楽往生を願った。この地も開発により川を埋
め橋を失う。ここに記念碑を建て当時を偲ぶ。

長福寺


和光山天沢院と号し、天文7年(1538)善空南立上人
によって創建された西山浄土宗の寺院である。
寺伝に、永禄3年(1560)桶狭間の戦いのとき、上
人は今川勢が当地に着くと聞くや、住民の先導者とな
って率先酒食を提供し、その労をなぎらったとある。
本尊の阿弥陀如来像は、今川義元の茶坊主林阿弥
が義元公供養のために納めたものと伝えられる。
寺宝に義元とその家老松宗信の木造、合戦記
を所蔵する。境内には合戦供養塔がある。

今川義元公首検証之跡


永禄3年5月此の附近に於いて林阿弥が
今川家の首検証を命ぜられた所。

合戦供養塔


選評の松


永禄3年(1560)桶狭間の合戦のとき、今川方の将瀬名
伊予守氏俊が、この松の根元に武将を集め、戦いの評
議をしたと伝えられる。この松は昔から村人に、「一
本松」とか「大松」と呼ばれ親しまれていたが、昭和34
年9月、伊勢湾台風の被害を受けて惜しくも枯死した。
現在のものは、昭和37年の植樹した2代目である。



桶狭間神明社


桶狭間神明社
桶狭間村は1340年、南朝の落武者によって開拓さ
れたという。桶狭間合戦の時、瀬名氏俊が御酒を供
えたと云われる桶が宝物として保存されている。




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