織田信長にまつわる女性達


@土田御前(母)

   織田信長の母土田御前の出生地
   
            岐阜県可児市土田

              土田城
   鎌倉時代の功臣、近江の佐々木義詮の末裔・山内
   秀久が土田に移り、大炊戸渡しの利権を握り近隣に
   勢力をのばし、土地名の土田氏を名乗る。かねて親
   交のあった丹羽郡小析の土豪、生駒家広の娘を妻と
   した。長子泰久出世後、家広と秀久は不和となり、妻
   と離別。家広宅で出生したが次子政久(後の土田城
   主)。成人した政久は主君(岩倉城主織田伊勢守信
   安)に仕え、信安の密命を受け、土田に帰り、岩山に
   築城し、以後、生駒氏を名乗る。
   この地は尾張道、木曽路の入口の位置にある重要
   な要衝の地で、伊勢守信安が尾張を守る防衛線の
   出鼻城であり、これを守る任務が土田生駒氏の土田
   城である。
                         (案内標示より)
                   
   土田氏は明智氏の家臣であったともいわれ、また、
   織田信長の正室「濃姫」の母「小見の方」は明智家の
   女性であり、明智・土田両家なしには織田家を語る
   ことができない。

   なお、土田御前の出生地には尾張国海東郡土田説もある。


   

家系図
                      生
                     駒
                     家
                     広
                 __|
         土      |  |
         田____女  生
         秀  |   子  駒
         久  |      豊
         __ |       政
         |  |      |
         政  泰      
         久  久      
      __|          |
     |  |           親
       土___信    正
       田  |  秀    |
         御  |        |
         前  信______吉
            長   |   乃
             __|
            |   |
            信  信
            雄  忠

  吉乃は夫の死後信長の側室に。
  土田秀久は明智氏の家臣といわれる。(土田城は、明智光秀の出生地の周辺である
  ことは確かです。)
  土田親重は幼時に生駒豊政の養子となる。
  (太字の親重は同一人物)

              尾張国海東郡土田説もある。
        
                   清須市土田


               幼少期の信長
        
                    勝幡駅前

        織田信秀と土田御前に抱かれた幼少期の信長
        1534(天文3)年5月28日尾張守護織田大和守家奉行
        織田信秀の嫡男として、海東郡勝幡城に誕生する。
        幼名は吉法師。

        

        



A養徳院(乳母)
       織田信長の乳母(養徳院)の夫・池田恒利の墓
          西美濃春日局ゆかりの地・養源院跡
  


         
                  
岐阜県揖斐郡池田町本郷

       信長像                   春日局出生地
      
    
 愛知県清須市清洲町            岐阜県揖斐郡揖斐川町白樫字大谷
岐阜県揖斐郡にある春日局出生地の帰り、道国道417号線を大垣方面に向っている
時、春日局と織田信長ゆかりの地の案内板があり、不思議でなりませんでした。   
養源院跡には、春日局の祖父の墓や織田信長の乳母(養徳院)の夫・池田恒利
の墓
が同じ場所にありました。                                 

養徳院
1515年生まれ。池田正秀の娘。近江(滋賀県)の滝川恒利を婿にむかえ、
1536年池田恒興を生み、同年織田信長の乳母となる。
夫・恒利の死後、織田信秀の側室となり、信長の妹を生む。
このため恒興は織田信長に厚遇された。
1608年死去。94歳。

池田氏
池田氏は、源頼光の玄孫泰政が、美濃池田郡池田荘(岐阜県多治見市)に
居住して池田氏を称したのにはじまるというが、出自には不明なところが
おおく、池田恒利が織田信秀につかえたころからでなければ確実なこと
が分からない。

池田輝政、徳川家康の娘督姫を継室とする。関ヶ原の戦いでは、東軍に属し、
戦後、播磨52万石を与えられ、姫路城を築城。
光政の代に岡山31.5万石に移封。その後鳥取32万石に移封。国持ち大名として
明治維新を迎える。

春日局の父・斉藤利三の母は光秀の妹だったともいわれ春日局と光秀の関係はきわめて
深い。

光秀と信長は、複雑な関係だったのかもしれませんね。                   

B濃姫

 濃姫という名は美濃の姫を略したものという説があり、「美濃諸旧記」には、帰蝶とありま
す。

         
              
愛知県清須市清洲町清洲公園・濃姫像

 斉藤道三と小見の方の間に生まれた、娘濃姫が一歳年上の信長に嫁いだ時、道三の
近習に十兵衛という少年がいました。小見の方は美濃国可児郡の明智城主明智光継の
娘で、十兵衛の父光綱と兄妹の間柄であります。従って、十兵衛は小見の方の甥に当た
り濃姫とは従兄妹になります。やがて十兵衛は光秀を名乗ります。
 濃姫の生年が天文四年(1535)であり、一応通説になっている光秀の没年五十五歳説
から逆算すると二人は七歳違いとなります。
 本能寺の変の時、四十八歳の濃姫が信長を裏切って光秀に味方したというが、これは「明
智軍記」からの逸話であります。幼なじみの光秀と濃姫は人知れず将来を誓い合ったが、父
道三が嫌がる濃姫を政略の具として信長に嫁がせた。以来、光秀の信長への憎悪、その後
の杳として行方知れぬ濃姫の生涯を暗示している・・・・。光秀反逆説にはそんな想像すら浮
かびそうなイメージがあります。

さらに、春日局の父・斉藤利三の母は光秀の妹だったともいわれるが、斉藤利三の先妻は、
斉藤道三の娘といわれている。道三の娘であれば、織田信長の妻・濃姫と姉妹ということになる。
その後、利三は、春日局の母・あんと再婚する。
このようにみていくと、織田信長と明智光秀は複雑な関係であったのかもしれませんね。

C吉乃
吉乃は信長の母である土田御前と姻戚関係にある。土田御前の甥、土田弥平次に嫁ぐが、戦死。
その後、織田信長の嫁ぎ、信忠・信雄らを生む。
土田御前の家系図を見てください。

                  吉乃の墓
         
                      
久昌寺          
         信長の側室・吉乃の墓(右端)が久昌寺にある
         吉乃は、信忠・信雄・徳姫の母である。      

                     久昌寺  
         
                   
愛知県江南市小折町
         生駒氏の菩提寺。吉乃を始めとして、
         生駒家代々の墓がある。        


                  生駒氏の邸址
        
                  愛知県江南市小折町


生駒氏
秀吉の時代、戦功により、6万石讃岐国丸亀城主までなっている。
関ヶ原の戦いの時、親正は西軍に属し、子の一正が東軍に属し、戦後
父・親正の本領讃岐17.18万石を領した。
4代藩主高俊の時、「生駒騒動」が起こり、讃岐国より出羽国由利郡矢島
1万石に転封となった。

土田城(岐阜県可児市)と生駒氏(愛知県江南市)は、県が違うので、
遠そうな気がするが、直線で十数kmの距離である。意外と近いのである。
土田氏が明智氏の家臣であったならば、この距離が示すように、
明智氏と織田氏は、信長以前から親密な関係があったかもしれません。


光秀は本能寺に信長を襲う前、愛宕山に参詣して戦勝祈願を行い、この時、
連歌会を催す。世に有名な愛宕百韻です。
光秀は発句で「時は今 天が下しる 五月哉」とを詠みます。
この解釈について「時」は「土岐」に通じ、「今、まさに土岐氏出身の明智光秀
が天下を支配することになる五月という季節である」という解釈になります。
この光秀の句がうかんできます。


D織田秀子
筒井定次
筒井順国の嫡男。筒井順慶に子が
なかったため、養嗣子となる。

正室:織田信長の三女・秀子
側室:明智光秀の娘
側室:徳川家康の異母妹・市場姫

系図纂要第9冊下(名著出版)参考

織田信長の死後、秀吉の家臣。
秀吉により、大和より伊賀上野へ移封。


           筒井城



       三重県伊賀市上野丸之内

関ヶ原では東軍に与し、家康より所領安堵。
1608年、定次は突如改易され、身柄は
鳥居元忠の次男・忠政のもとに預けられた。
1615年、大坂の陣にて豊臣氏に内通したと
いう理由により自害を命じられる。


市場姫
家康は松平広忠と刈谷城主・水野忠政の
娘於大の方との間にできた子。市場姫
は広忠と田原城主戸田康光の娘との間の子。
広忠の死後、家康は市場姫を八ツ面城主の
荒川義広に嫁がせる。荒川義広は途中で
親戚関係のため、家康に刃向かう。
そのため、家康は義広を八ツ面城から追い出した。
後、家康は市場姫を筒井家に嫁がせる。
本能寺の変の前でも後でも意味がありげだ。
1593年、死亡。不退院で葬儀。葬儀の導師は
鳥居元忠の兄・本翁意伯上人がつとめている。



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