織田信雄


織田信長の次子。母は吉乃。
一説には三男とも。

龍神社

江南市小折町八竜

龍神社の由来
生駒氏の氏神であり、また織田信雄(信長側室
吉乃の次男)の守護神でもある。祭神は八大龍王。
江南観光ガイドブックには、織田信雄の出生地
と伝えられていると紹介されている。




総見院

京都市北区紫野大徳寺町

左より信雄、信長、信忠。

織田信雄家供養等



安土城

信長次男織田信雄を始祖とする大和松山藩主
の五輪塔四基が並んでいる。右から初代信雄、
四代信武、三代長頼、二代高長の供養塔。


生駒氏の邸址

愛知県江南市小折町

土田城(岐阜県可児市)と生駒氏(愛知県江南市)は、県が違うので、
遠そうな気がするが、直線で十数kmの距離である。意外と近いのである。
土田氏が明智氏の家臣であったならば、この距離が示すように、
明智氏と織田氏は、信長以前から親密な関係があったかもしれません。

伊勢国司北畠具房の養子となる。


1574年長島の一向一揆を攻撃、翌年伊勢国司となる。
本能寺の変後、清洲城主となる。


 清洲城
清洲城
愛知県清須市

北市場美濃路公園



美濃路の由来

      愛知県稲沢市北市場町
                                
美濃路は、天正年間(今から約400年前)織田信雄
が幅五間(9m)の道路に改修させたのが始まりで、
東海道と中山道を結ぶ重要な脇街道であった。
宮の宿(熱田)で東海道と分かれて、名古屋・清須
(清洲町)を経て北市場地内を通り、稲葉・起・墨俣・
大垣の各宿を経由して垂井宿で中山道と合流する。
その里程は14里24町15間(57.6km)といわれた。
この道は、慶長5年(1600)の関ヶ原の役にも重要な
役割を果たした。即ち東軍の先鋒として福島正則が
この道を西に進み、さらに勝利をおさめた徳川家康が
この道を通って凱旋した。家康凱旋路・天下一統に
因み、江戸時代にはこの道を吉例街道と呼び、江戸・
京都間の往来に盛んに利用された。


1583年徳川家康と結び、豊臣秀吉との小牧・長久手
の戦を起こす。

長久手古戦場
長久手古戦場
愛知郡長久手町武蔵塚


関ヶ原の戦いでは東軍に属し、5万石を与えられる。


徳源寺

名古屋市東区新出来

蓬莱山徳源寺
臨済宗妙心寺派。
初め熱田に在って宝泉寺と号し、織田信雄の創建で
忠嶽(瑞怒)和尚を開山とする。元文6年(1741)
火災にあい、寛保4年(1744)この地に移建した。






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