池田恒興


池田恒興
父は信長の父・信秀に仕えた池田恒利。
恒興は、信長の乳兄弟として早くから織田家に仕える。

池田恒利屋敷

名古屋市中川区小城町



池田恒興の父・恒利が滝川貞勝の次男であるという
ことは、滝川一益と池田恒興は従兄弟同士ということか。

池田恒興の墓

岐阜県揖斐郡池田町本郷

池田恒興(信輝)、元助の墓
恒興は織田信長と乳兄弟であったので、信長に仕え、
永禄10年(1567)の稲葉山城攻略の戦攻をたてた。
さらに、信長が浅井・朝倉連合軍を破った元亀元年
(1570)の姉川の戦いで戦功を立て、大垣城に住み、
13万石の大名となったが、本能寺の変で信長が
明智光秀に殺された後、豊臣秀吉に味方して山崎
合戦で光秀と戦い、これを亡すために戦功をたてた。
池田恒興は勝入斎といって大垣城主となり、子の元助
が岐阜城主の頃、恒興父子は秀吉に誘われ、尾張の
長久手に出陣し、父子共に戦死を遂げた。時に天正12年
(1584)4月9日であった。法名は信輝、前紀州城守雄岳
宗英禅定門、元助、前紀州顕功英節禅定門、父子の墓
は大垣市林町にあったといわれるが、徳川氏の忌むと
ころとなり、出身地である当町に移され、現在地にある。
尚、恒興の長男は元助であり、次男が輝政である。輝政
は初めて池尻城主となり、大垣・岐阜・三河吉田城主を
経て、慶長5年(1600)姫路城主となる。輝政の次男
忠継が慶長8年(1603)備前国岡山城主となり、その
子孫が現在の岡山池田牧場主池田隆政氏(今上天皇
の姉・厚子妃の夫)である。       (案内板より)




織田信長の乳母(養徳院)の夫・池田恒利の墓
西美濃春日局ゆかりの地・養源院跡




岐阜県揖斐郡池田町本郷
       信長像                   春日局出生地
      
    
 愛知県西春日井郡清洲町            岐阜県揖斐郡揖斐川町白樫字大谷

岐阜県揖斐郡にある春日局出生地の帰り、道国道417号線を大垣方面に
向っている時、春日局と織田信長ゆかりの地の案内板があり、不思議
でなりませんでした。養源院跡には、春日局の祖父の墓や織田信長
の乳母(養徳院)の夫・池田恒利
の墓が同じ場所にありました。

さらに、斎藤道三の妻の小見の方は美濃国可児郡の明智城主
明智光継の娘で、光秀の父光綱と兄妹の間柄である。従って、光秀は
小見の方の甥に当たり、信長の妻となった濃姫とは従兄妹になる。

光秀と信長は、複雑な関係だったのかもしれませんね。



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