織田信長・フォトストーリー

本能寺の変までの経過

 本能寺跡に行ったことのある方は、分かると思いますが、本能寺は、二条城・内裏と
目と鼻の先なのです。

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                二條殿址

       
                
京都市中京区両替町通

徒歩で数分の所にあるのです。どうして信長が本能寺に宿泊したのかが疑問でなりま
せん。このことについて述べていきたいと思います。

       
            
旧本能寺(京都市中京区元本能寺南町)

どうも少人数でちょっとした寺(本能寺)に宿泊していた信長を光秀が衝動的に襲ったという
だけではなさそうな感じが読み取れます。

そこで、本能寺の変にいたるまでの経過を順序だててみていきたいと思います。
(図解雑学織田信長、西ヶ谷恭弘著:ナツメ社 参照)

1581年2月28日 天覧行幸の馬揃。

1581年3月5日  2度目の馬揃。今回の馬揃には、別の意図が含まれていた。正親町天皇の
             譲位の奏上である。この奏上は蹴られる。

1581年9月     伊賀惣国一揆を平定。

1582年正月    安土城の竣工。

1582年3月    武田勢を滅ぼす。

1582年4月25日 三職推任。
             三職とは、太政大臣か関白か征夷大将軍であり、信長の望む職を朝廷が
             推挙するということ。

これにより、天皇譲位を回避するつもりであったが、信長はその返事をしなかった。
信長は自分への推任ではなく、嫡男信忠への推任を待っていたのではないだろうか。
信長は、信忠がしかるべき官(天下人)に就き、信長自身が上皇的立場(天上人)として
君臨する体制を考えていたのではないか。

              

1582年5月15日 家康一行、安土城入り。3日間にわたり、光秀が用意した饗応を受ける予定。
             この時、光秀と家康はどのような会話をしたのだろうか。

             信長はこの日から信忠を上洛させていた。
             朝廷が信忠に官位を推任する日が間近に迫っているための上洛とみられる。

1582年5月17日 光秀は饗応2日目のこの日、急遽中国方面の出陣を命じられる。
             これを受けて光秀は拠点の近江坂本城に入り、出陣の準備に取り掛かる。

1582年5月27日 光秀が愛宕連歌会で発句を詠む。坂本に帰ってからの10日間に、
             光秀は一体何をしていたのだろうか。

1582年5月29日 信長、上洛する。おそらくこの少し前に、信長は
             信忠からの官位推任の連絡を受け、上洛したのではないか。

1582年6月1日  本能寺で大茶会を開く。


信長の人生で、たった一度だけ大人数を集めて会合を持った。
それは本能寺の変の前日6月1日、本能寺大茶会だった。
このときは、わざわざ安土城内に大事に保管する数々の大名物・名物38種を茶会会場
となる本能寺まで運搬し、一堂に披露した。
この大茶会の出席者は、近衛前久父子、九条兼孝、一条内基、二条昭実、鷹司信房、
今出川晴季、徳大寺公維ら41名の公家、京の五山などの寺社の代表、京を代表する
商人の歴々などである。
会合嫌いの信長がどうして6月1日の茶会をこれほど盛大に行おうとしたのだろうか。
この大茶会は翌日6月2日に行われる予定の信忠の官位就任を祝するために開かれ
たのではないか。
信長は天上人になる目前だったのであろう。

1582年6月2日  未明、明智軍は、本能寺に突撃する。
1582年6月2日  四国(長宗我部元親)攻めの大将織田信孝が渡海する前日
           であった。

      
         
恵那郡明智町・お牧の方墓所(光秀公の母堂)にあり


様々なことが絡み合い、日本の秩序を守るため、信長の野望を阻止するため、
この日に決行するしかなかったということだろうか。

そして、織田信長の夢が終わった。




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