織田信長・フォトストーリー

蟹江城址

愛知県海部郡蟹江町蟹江本町

1574年信長による伊勢長島一向一揆攻め
の時、蟹江城河口に舟を集めるなど出撃拠点
の一つとして利用。                 
1584年小牧長久手の戦いの中、蟹江合戦で
徳川方に攻め込まれ、落城。後、廃城となる。



願證寺

三重県桑名郡長島町
長島一向一揆の盟主、願證寺。願證寺のあった
場所は、河川改修で没し、長島町に移転している。

長島一向一揆殉教之碑

願證寺内
武田勝頼との対決を前に長島一向一揆の制圧に
取り掛かった。                     
1575年9月長島一向一揆を鎮圧する。     




馬防柵

愛知県新城市
1575年設楽原の戦いに用いられた馬防柵の再現。
当時、天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊をこの柵
で防ぎ止め、その内側にあって鉄砲でねらい撃ちす
るために造られたもの。                 
決戦の正面となった連吾川沿いに三重の柵を構え
背後の弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いに
は、さらに一重の柵を設けて万一に備えた。    
織田・徳川軍にとっては、勝利を呼ぶ重要な布石で
あり、逆に武田軍にとっては勝利を阻む痛恨のしが
らみとなった。                       

長篠城跡


この時使用された鉄砲は、3000丁といわれる。
これだけの数の鉄砲を調達できた織田家は、
相当の経済力があったのではないだろうか。

長篠城本丸跡

愛知県南設楽郡鳳来町
1575年5月21日長篠の戦いで武田勝頼を破る。 
1575年5月、武田勝頼軍1万5千が徳川家康の将 
奥平貞昌以下5百が守るこの長篠城を包囲して攻防
約10日。                           
織田信長3万、徳川家康8千の援軍は、5月18日西方
4キロの設楽原に到着して陣を築く、武田軍は、20日
長篠城の囲みを解いて設楽原へ進出。21日は夜明
けとともに、織田・徳川軍の陣地に突入して壮絶に戦
うが、数千挺の銃撃にさらされ歴戦武勇の将士の多く
を失う。勝頼は数騎に守られて敗走。          



1577年大和の松永久秀が謀反を起こす。

1578年摂津の荒木村重が謀反を起こす。
      播磨の別所長治が謀反を起こす。


明智光秀像

大津市下坂本3
1579年8月9日明智光秀が丹波を平定する。

1579年伊丹城を落し、荒木村重は逃亡する。

1580年三木城を落し、別所長治を討つ。   

秀吉・三成出逢いの像

長浜駅前
1581年10月5日は羽柴秀吉が因幡を平定する。

安土城跡


天主台からの眺め

滋賀県蒲生郡安土町
1582年1月1日安土城の竣工を記念して、一般公開する。

天主の直下にある本丸には、天皇を迎える御幸殿を備えて
いた。このあたりに信長の意図があるのでしょうね。    
本能寺の変の直後に主要部が焼失する。          

安土城天主台跡
滋賀県蒲生郡安土町
1582年5月15日安土城で徳川家康を饗応する。     

1582年5月27日明智光秀が愛宕連歌会で発句を詠む。

 ここで少し愛宕神社について述べて行きたいと思います。
愛宕神社

 所在地  京都市右京区嵯峨愛宕1          
 アクセス 京都駅から清滝まで京都バスで約1時間
        山麓の清滝から登山約2時間(4km)  

  光秀が詣でた愛宕神社は、全国800余社ある愛宕神社の総本山。   
 標高924メートル、愛宕山の頂上、山城と丹波の国境の地点にある。
 京都市街の眺めが素晴らしい。                         

 光秀が詣でた愛宕神社は、ただ近所にある神社ではないのです。   
 山麓の清滝からでも約2時間の登山が必要になるのです。       
 深刻な思いを胸にいだき、一歩一歩、自分の決意を固めるように登りつ
めたのでしょうか。                                

1582年6月1日本能寺で大茶会を開く。

本能寺

京都市中京区元本能寺南町
1582年6月2日本能寺の変で自刃して果てる



本能寺

京都市中京区下本能寺前町
現在の本能寺は、事変後、秀吉によって
移転させられた。              




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