織田信長・フォトストリー


1570年5月26日信長の妹・於市の夫の浅井長政が朝倉義景
に味方し、信長を裏切る。信長はこの危機を朽木越で脱する。
長政は義兄・信長の力による統一について行けなかったから
でしょうか。                               


この時、信長を助けたのが、朽木元綱である。そして、この
朽木家が、関ケ原の戦いで重要な役割を担っていく。 
また、忠臣蔵(泉岳寺)と関係があることは、興味深い。

桔梗物語・明智光秀のHPを参考にしてください。     


姉川古戦場




滋賀県東浅井郡浅井町
1570年6月28日姉川の合戦で浅井・朝倉軍を破る。
戦いは午前5時頃に始まり、午後2時頃には終わった。

姉川をはさんで北に陣取る浅井・朝倉連合軍は約
18,000人。南の織田・徳川連合軍か約28,000人。
徳川から仕掛けられたこの戦いは、最初浅井・朝倉
軍の方が優勢。しかし、徳川軍の力戦により、朝倉軍
が後退。浅井軍は右翼から崩れはじめ、これにより
力得た織田軍も総攻撃に転じ、ついに浅井・朝倉軍
は小谷城に敗走。                    
この戦いは信長の天下統一のきっかけと言われて
いる。                           



比叡山延暦寺

大津市坂本本町
1571年比叡山を焼討ちする。


武田信玄(左)と上杉謙信

長野市小島田町(川中島古戦場跡)
1573年4月武田信玄、急死。


瀬戸市
中央の武田信玄甲斐守と刻まれていて、
その右には、信玄の没年である天正元年卒
(1573)と見える。この地で死亡したのだろうか。

1573年7月7日室町幕府を滅ぼす。
ここに足利尊氏以来237年続いた足利政権が滅んだ。

朝倉義景の墓

福井市城戸ノ内町
1573年8月24日越前に侵攻し、朝倉義景を討つ。



一乗谷朝倉氏遺跡



福井市城戸ノ内町


浅井長政像(浅井氏宅址)

愛知県春日井市牛山町(名鉄間内駅前)
浅井長政は朝倉義景との盟約により織田信長との
戦いで1573年8月28日敗れ、自害する。      
長政の側室八重の方は、七郎を連れ美濃にのがれ
る。1592年七郎20才も時、この地牛山村(愛知県
春日井市牛山町)に移り、1650年に没する。    

1573年8月26日小谷城(滋賀県東浅井郡湖北町)を落とし、
浅井長政を討つ。    

浅井長政自刃之地

小谷城・赤尾屋敷跡にて
滋賀県東浅井郡湖北町伊部

   
   小谷城跡碑        山王丸跡からの眺め
頂上の山王丸跡の所で、カサカサと物音がする。
黒い動物の後ろ姿を見る。熊かたぬきか?    
帰りにお局屋敷跡に寄る予定だったが、・・・・  
あまりにビックリしたので、いっきに山を駆け下り
たのは言うまでもない。               




長政は、信長の妹(於市の方)を室に迎えている。
信長は、長政を自刃させ、妹・於市の方と3人の娘
と嫡男を捕らえる。                   
3人の娘は、長女は淀殿(豊臣秀頼の生母)となる
於茶々、京極高次の正室となる於初、徳川秀忠の
正室となる於江(徳川家光の生母)である。    

京極高次墓

滋賀県米原市(徳源院)

浅井家の血脈は、娘達を通して、豊臣・徳川へと流
れ込むのである。                    
と言うことは、織田家の血脈は、於市の方と娘達を
通して、豊臣・徳川へ流れ込んだということか。  
そして、いとこ同士(豊臣秀頼と徳川家光)の戦い
とも言える関ケ原の戦い
へと続いていく。     
なんと難しいことか!                 

勝徳寺


浅井氏三代墓

滋賀県長浜市・勝徳寺
左から、長政公、亮政公、久政公。



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