織田信長・フォトストーリー
国友鉄砲の里資料館

滋賀県長浜市国友町
1549年、弱冠16歳の信長は、近江の国友村
に500挺もの鉄砲製作を依頼している。
万松寺


名古屋市中区大須3
信長の父・信秀の墓(1552年病死)
1552年3月3日、父信秀の葬儀が万松寺で営まれた
さい、信長が焼香の時、鉢香を位牌に投げつけた逸
話は有名である。
萱津古戦場跡

愛知県海部郡甚目寺町上萱津
1552年萱津合戦
父・信秀の死後、信長の廃嫡をねらう勢力が活発に。
信長の主家に当たる清洲勢がその中心で、萱津で
信長軍と戦うが破れた。
政秀寺

名古屋市中区栄3
1553年信長の守役・平手政秀自殺。
(平手正秀:特に、信長と斎藤道三の娘との
結婚では調整役として活躍する)
平手政秀邸址

名古屋市北区平手町・志賀公園内
平手政秀墓碑

名古屋市千種区・平和公園
聖徳寺石碑

愛知県一宮市冨田
1553年4月、信長と斎藤道三の会見が行われる。
尾張と美濃を分ける木曽川河畔の富田にある聖徳
寺(正徳寺)が会見場所となった。
この時の折り目正しい信長の儀礼により、道三は、
信長を見る目を変えた。
光円寺山門

名古屋市中川区
山号「臥龍山」の立派な金字額がかかる山門は、
織田信長と斉藤道三が会見した尾北(尾西市)
富田村聖徳寺の山門を移築したものである。
信長には道三の戦争や政治における奇略と決断が受け継がれていきます。
それが一つの独創性となり、歴史や伝統を打ち破る力ともなっていきます。
その個性は道三以上に強烈であるかもしれません。そして、信長は天下を夢
に見ているのであります。
信長が道三のその一方の分身であるのに対して、いま一つの分身があります。
それが濃姫のいとこの明智光秀であります。斉藤道三の妻小見の方の甥であ
った光秀は、道三から古典的な教養の面を受け継ぎ、そして歴史とか伝統とか
いうものに深い関心を持ちながら、天下に対する野望を抱いています。
道三を中心として、信長と光秀の因縁を感じざるを得ません。
成願寺

名古屋市北区成願寺
1553年7月18日 安食の戦い。
清洲の織田軍と安食の成願寺前で戦う。信長勢の
中に柴田勝家・太田牛一が加わる。織田軍の勝利。
なお、太田牛一、常観寺(現在の成願寺)で修行。
織田信長の一代記である信長公記で有名。

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