西尾光教宛光秀書状
6月2日光秀は、野口城主・西尾光教に、
味方となり、大垣城を攻め取るよう指令。
西尾光教は光秀の勧告を拒絶し、やがて秀吉に仕えた。
『西尾光教宛光秀書状』(『武家事紀』)
信長父子の悪逆は天下の妨げ、討ち果たし候、
其の表の儀御馳走候て、大垣の城相済ますべく候、
委細山田喜兵衛尉申すべく候、恐々謹言。
六月二日 惟任日向守光秀(花押)
野口城
大垣市野口町
野口城はこのあたりか。
西尾光教の正室は、氏家直元の妹。
本能寺の変時、大垣城主は氏家直元の子・直昌。
西尾光教に大垣城を攻めるよう要請するのは、
ちょっと無理があるかもしれません。光秀は、この
あたりのことを調べたのだろうか。本能寺の変後、
そんな余裕はなかったかもしれませんが・・・・・。
大垣市野口町から大垣城までは、5km程か。
大垣城
大垣市郭町2-52
宝光院
大垣市野口町
大垣城主戸田氏並びに西尾豊後守の菩提所なり。
氏家直元(卜全)
大垣城主。元亀2年、信長が率いる長島一向一揆
討伐に参加して討死。野口城主・西尾伊豆守信光
の子、豊後守光教は卜全の妹と結婚。後に信長に
仕える。西尾家の位牌、墓を宝光院に祀る。光教は
後に、曽根城主(2万石)そして揖斐城主(3万石)に。
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