もうひとつの関ヶ原


田辺城

舞鶴市字南田辺15-22



藤孝の墓

京都市北区紫野大徳寺町(高桐院)


慶長5年7月18日、西軍は、細川幽斎の守る田辺城
を攻略するため、丹波・丹後の西軍諸将を向かわせ
た。西軍15000余の大軍は、7月20日田辺城を囲んだ。
幽斎はわずかの守備兵で篭城を決意した。幽斎の
決死の決意を知った朝廷は驚いた。なぜなら、幽斎
は歌学者として著名な武将であり、古今伝授を受け
ていたからである。古今伝授とは「古今和歌集」の秘訣
のことで、元亀3年(1572)に願い出て三条西実枝から
この古今伝授を受けて二条歌学の正統を伝えていた
のである。幽斎にもしものことがあれば、この古今伝授
が絶えてしまうのである。この事態を憂慮した八条宮
智仁親王が、7月27日にさらに、8月21日、和睦をし
開城するよう勧告した。しかし、幽斎は、この勧告を
辞退し開城しなかった。9月3日、後陽成天皇は古今
集秘事の伝統の絶えることを惜しみ、開城の叡慮を
伝えるべく、勅使を田辺に下らせた。西軍は勅命を
受け兵を引いたので、勅使は幽斎を説得し、9月13日
幽斎は城を明け渡し、高野山へ登った。決戦は2日後
の9月15日であった。結果として幽斎は、60日にも
わたって西軍15000余の兵を釘付けにし関ヶ原に
参陣させなかった。戦わずして大功をあげたといえよう。
幽斎67歳であった。(細川幽斎・忠興のすべて参照)


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